ロジーヌ・チャンドボアは、生物の発生はDNAにコードされていないと考えている。彼女は発生学者として、設計者は卵子の細胞質で、DNAは彼女の喩えによると木やコンクリートなどの建築に使われる材料を決めているに過ぎないことを示す実験を指摘した。
これらの概念は分子生物学の全能性に逆らう戦いと言えるもので、アンドラス・パルディ(Andras Paldi)のような若手研究者の研究にその確証を見ることになった。彼はこう言っている。「次の遺伝学の革命で問題になるのは、生物の生化学的反応の途轍もない複雑さに占めるDNAの場所を新たに与えることである。生命の進行を支配する独裁者としてDNAをあがめ奉ることは最早ないだろう。・・・私は遺伝学の発展の最後の段階に来ていると信じている。それは20世紀初頭に始まり、全能の遺伝子という主要な概念により特徴づけられる。その概念によれば、遺伝子は生物の発生に必要にして十分な情報を持っているとされるが、この説明の図式では観察される遺伝現象を次第に説明できなくなっていると皆気付いている」。同時に彼は「導かれた」偶然についても語っている。
ロジーヌ・チャンドボアにとっての進化とは、原始細胞から複雑な生物に至る胎発生のイメージに沿うように始めから展開されるプログラムである。「発生の遺伝プログラムは生物学者全体の想像の中にだけ存在する。・・・彼らのすべての研究は同じ結論に至る。すなわち、発生のプログラムはDNAに書かれていない、というものだ。それは卵子の細胞質に含まれており、特定の分子組成と適切な構造を持たなければならない。換言すれば、DNAは何ものにも指令を出すことはないし、もちろん設計者ではない。しかし、構造のための材料を作るので、生物に独創性を与える。・・・生命の樹は、木がもっぱら内的因子を介して、種子から作られるのと同じように原始細胞から作られた」。
彼女はこの点でマイケル・デントンとレミー・ショーヴァンと似ているように見える。しかし、違いがあるのは、彼女が進化に内在するプログラムは卵子の細胞質に作用する内的因子によると考えている事実である。もちろん、これらの考えは極端であるが、遺伝子よりはエピジェネティックの役割を強調する現在の傾向は、これが非論理的だとは言えないことを示している。
dimanche 16 mai 2010
samedi 15 mai 2010
第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (13)
アン・ダンブリクール・マラッセ(国立自然史博物館前史部門CNRS研究員)の研究は、一般的な進化のメカニズムと同様に霊長目の進化の間で起こる過程の性質についての重要な議論をフランス国内で巻き起こした。彼女の仕事は二つの発見と一つの理論に分けられる。最初の発見は、頭蓋基底部の屈曲が神経管が巻かれることと関係すること(図10.5参照)、そして最初のヒト科で起こった直立化の程度は、信じられているような二足歩行に喚起されたものではなく、神経管の巻かれ方の増強によることを示したことである。
神経管が胎生初期に巻かれれば巻かれるほど、屈曲が益々重要になる。この過程は頭蓋基底部と連絡する組織に反映される。これらの緊張は、われわれのすべてが顎の結合に小さな空隙を出現させており、現在のどのサルにも見られない。それはアウストラロピテクスから出現するもので、それ以前にはない。
これは各自が確認できる客観的な事実であり、首をより垂直に伸ばし顎骨を後退させたヒト科の出現の理解にとって極めて重要になるものである(われわれが反復により成人になると額の下の位置に歯を持つ唯一の霊長類であるのは、頭蓋底部の収縮と顔面の後退という現象による)。
もし第一の発見がわれわれの姿勢と垂直性が胎児期に由来することであれば、第二は化石に関するものである。人間の祖先の頭蓋を3次元で計測すると、現在及び化石の霊長類は自動的に6つのグループに分けられ(図10.6参照)、それぞれは胎児期の収縮のひとつの安定期に対応している。
図10.6 われわれに至る6段階生命の進化における方向性と非漸進性
成長の程度、角度、軌道をもとにしたこれらの発見から、アン・ダンブリクール・マラッセは人間に導いた形態学的進化の数学理論を書こうとする。この進化は反復する連続的傾向を示すが、その効果には非連続性がある。胎生期の収縮の一つの安定期から中間的な時期を経ずに新たな安定期へ移行し、それぞれの安定期は「基本的個体発生」と呼ばれるものに対応している。
原型という概念に近い「型紙」、「パターン」についても語られる。型紙はある限界を超えない範囲で変化できる(丁度、セダン型自動車が基本型を保ったままクーペにもステーションワゴンにもなるように)。そして、この型紙の内部における進化は漸進的で、ダーウィン主義的で、偶然による。逆に、そして厳密なパラダイムとは対照的に、これは類人猿とアウストラロピクテスの間で見られる進化の形ではなく、以前の組織図の改定による新たな胚発生の出現なのである。
この過程の記載を可能にする角度の変化を数値に置換すると、角度は常に同じ方向に進化することがわかる。すなわち、より重要な神経管の巻き込みと常により顕著な中枢神経系の複雑化を伴った「顔面・頭蓋の収縮」で、体は益々垂直になり、その均衡が益々複雑になる。
6000万年の距離を置いてみると、内部に由来し、遺伝によって伝達される頭蓋の内側から読み取れるする一つの過程が浮き上がってくるのがわかる。もし環境のおびただしい変化が種に働くとしても、この基本的な内部の過程を変えることは絶対にない。アン・ダンブリクールの貢献は、進化において作用している必要不可欠な過程は自然選択とは関係ないことを示したことである。この進化は指数関数的に加速しながら進むことになる。新しい個体発生の出現は、そこから派生するものが出現するのに要する時間より短くなる。
アン・ダンブリクールは内的性質を感知する内的論理(彼女は量子由来であると考えている)が存在すると結論する。それは唯一の作用主体が環境により齎され、変異した遺伝子に作用する自然選択である新ダーウィン主義のモデルでは説明できない。これが彼女が大進化(ある型から別の型への移行を可能にする)と小進化(ある型の中で起こる多様な適応)を常に区別してきた多くの科学者に加わる理由である。
このような統合することにより遺伝学を超える発見と知識から組み立てられた理論は、新ダーウィン主義の3つの基本的な主張に反対の立場を取る。第一に、進化とは予測不能な現象に従うもので、「記憶」はなく、以前に起こすことができた進化に影響されることはないこと、第二に、進化の過程で解剖学的変化を選択するのは基本的に環境の変化であること、そして最後に、これらの変化は漸進的であるという3つの考えに反対する。
しかし、新ダーウィン主義の不完全さを示しながら、このアプローチは、敢えて言うならば、進化が実際に起こっているところを見ることができる最良の証拠になっている。
dimanche 14 mars 2010
第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (12)
3. 内的論理
(photo source: Réflexions sur trois points)
レミー・ショーヴァン(ソルボンヌ大学名誉教授)は動物行動学者である。社会性昆虫のフランスにおける最高の専門家の一人である。ジョン・ピヴェトーのような重要な古生物学者やピエール・ポール・グラッセのような主要な動物学者により守られてきたフランスの伝統に従い、彼はダーウィン主義と自然選択の全能性に対して批判的であり、動物行動の専門家としては、特に社会生物学に批判的である。
ここに彼特有の挑発的なスタイルで書かれたショーヴァンの考え方をまとめてみたい。
「― 生命は、安全のための膨大な余力、非常に幅広い環境の変化に対する著しい適応性、そして同じ問題に対して同様の機能性を持つ複数の解決法によって特徴付けられている。
― 適応が限られていることは死を意味する。臓器の手の込んだ特殊化は、必要なく発達した芸術のための芸術にしか過ぎないことがしばしばである。
― 有機的な仕掛けが有用なのが有害なのかどうか、それがどの段階までなのかを知ることは、例外を除いて不可能である。
― 複雑な仕掛けが存在するあらゆるところで、機能的に劣ることがないように見えるより単純なものをしばしばすぐそばに見つけることができる。
― 進化は無限に異なり得る手段ではなく、達成すべき目的に興味がある (例:翼と飛行)。
― 新ダーウィン主義は、敬虔な精神しか満足させることができないトートロジーの集合に過ぎない。
― 環境はほとんどどんなものでも認め、大したことをしない。非常に極端な稀な例においてのみ選択の力を発揮する。
― 非常に異なった生物において、心理現象の一段上の状態がすべての連絡網を可能にし、その頂点に到達する。
― この過程の一般的なやり方は、すべての動植物において方向は定まらないが両者を結び付ける意志に似ている(例えば、蘭とそれを受粉するスズメバチ)。この目的論に注釈を加えるべきではないが、どのようにこの方向の定まらない意志が働いているのかを探るべきである。実験が可能である」
ショーヴァンは、ダーウィン主義により適応の頂点として提示される非常に複雑な解決法が近縁の生物では同様の機能を果たす非常に単純な解決法と「競争させられる」原則をほぼ法則のように仕立てあげる。他方、彼は自然選択が明らかに環境にうまく適応していない動物を排除しないことを指摘し、自然選択に全能性を与えるダーウィン主義の説明に一貫性がないことを主張する。ショーヴァンは明らかな目的論者であり、「合目的性は生物学者が公衆の面前では一緒にいるところを見られたくないが、それなしには済ますことができない女性である!」と言ったピエール・ポール・グラッセを批判する稀な生物学者の一人でもある。
彼にとっての進化は、内にあって進行するプログラムに対応している。しかし、それは単純な論点先取の不当性には当たらない。第一に、彼はそのようなプログラムの存在を明らかにできる実験を提案している(これについては第12章でも触れる)。第二に、彼の目的論は、自然の観察、進化は「後ろに戻ることがない」という事実、その根本にある傾向が昆虫、鳥、蛸、哺乳類における心理現象の広がりと同じく、あたかも何かが自らの実現を願うように表れるという事実から出発している。彼はダーウィン主義はトートロジーである(適者生存と言うが、誰が適者なのか?それは生き残った者であるという論理)とするトム・べテルがアメリカで発展させた考えを再び取り入れるのである。
(photo source: Réflexions sur trois points)レミー・ショーヴァン(ソルボンヌ大学名誉教授)は動物行動学者である。社会性昆虫のフランスにおける最高の専門家の一人である。ジョン・ピヴェトーのような重要な古生物学者やピエール・ポール・グラッセのような主要な動物学者により守られてきたフランスの伝統に従い、彼はダーウィン主義と自然選択の全能性に対して批判的であり、動物行動の専門家としては、特に社会生物学に批判的である。
ここに彼特有の挑発的なスタイルで書かれたショーヴァンの考え方をまとめてみたい。
「― 生命は、安全のための膨大な余力、非常に幅広い環境の変化に対する著しい適応性、そして同じ問題に対して同様の機能性を持つ複数の解決法によって特徴付けられている。
― 適応が限られていることは死を意味する。臓器の手の込んだ特殊化は、必要なく発達した芸術のための芸術にしか過ぎないことがしばしばである。
― 有機的な仕掛けが有用なのが有害なのかどうか、それがどの段階までなのかを知ることは、例外を除いて不可能である。
― 複雑な仕掛けが存在するあらゆるところで、機能的に劣ることがないように見えるより単純なものをしばしばすぐそばに見つけることができる。
― 進化は無限に異なり得る手段ではなく、達成すべき目的に興味がある (例:翼と飛行)。
― 新ダーウィン主義は、敬虔な精神しか満足させることができないトートロジーの集合に過ぎない。
― 環境はほとんどどんなものでも認め、大したことをしない。非常に極端な稀な例においてのみ選択の力を発揮する。
― 非常に異なった生物において、心理現象の一段上の状態がすべての連絡網を可能にし、その頂点に到達する。
― この過程の一般的なやり方は、すべての動植物において方向は定まらないが両者を結び付ける意志に似ている(例えば、蘭とそれを受粉するスズメバチ)。この目的論に注釈を加えるべきではないが、どのようにこの方向の定まらない意志が働いているのかを探るべきである。実験が可能である」
ショーヴァンは、ダーウィン主義により適応の頂点として提示される非常に複雑な解決法が近縁の生物では同様の機能を果たす非常に単純な解決法と「競争させられる」原則をほぼ法則のように仕立てあげる。他方、彼は自然選択が明らかに環境にうまく適応していない動物を排除しないことを指摘し、自然選択に全能性を与えるダーウィン主義の説明に一貫性がないことを主張する。ショーヴァンは明らかな目的論者であり、「合目的性は生物学者が公衆の面前では一緒にいるところを見られたくないが、それなしには済ますことができない女性である!」と言ったピエール・ポール・グラッセを批判する稀な生物学者の一人でもある。
彼にとっての進化は、内にあって進行するプログラムに対応している。しかし、それは単純な論点先取の不当性には当たらない。第一に、彼はそのようなプログラムの存在を明らかにできる実験を提案している(これについては第12章でも触れる)。第二に、彼の目的論は、自然の観察、進化は「後ろに戻ることがない」という事実、その根本にある傾向が昆虫、鳥、蛸、哺乳類における心理現象の広がりと同じく、あたかも何かが自らの実現を願うように表れるという事実から出発している。彼はダーウィン主義はトートロジーである(適者生存と言うが、誰が適者なのか?それは生き残った者であるという論理)とするトム・べテルがアメリカで発展させた考えを再び取り入れるのである。
lundi 8 mars 2010
第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (11)
2. 自己組織化
(photo source: Transition Towns WIKI)
(photo source: Antropología, genética y cultura)
(photo source: Transition Towns WIKI)ブライアン・グッドウィン(放送大学生物学教授)はスチュアート・カウフマン以上により複雑な構造の出現は生命の創発の性質に因るだろうと考えている。「1859年以来、自然選択と適者生存のメカニズムが地上の生命を説明する唯一の命題であるとされてきた。その起源、絶滅、適応はすべてダーウィン主義の視点から研究されてきた。しかし、種の起源や多様性を説明する他のやり方は存在する。ニュートン的世界の見方が20世紀のアインシュタインによる革命まで支配的であったように、ダーウィン主義は複雑性は生命に内在する創発の性質で、必ずしも偶然による変異と自然選択の結果ではないことを認める新しい理論に置き換わるはずである。生物は競い合うと同程度に協調し合い、利己的であると同程度に利他的で、破壊的で反復的であると同程度に創造的で遊びを好む」
ブライアン・グッドウィン自身はダーウィン以前の理性的な形態学者やダーシー・トンプソンについて触れ、さらにゲーテの復権とより質的を重んじる科学の発展を願うとまで言っている。
(photo source: Antropología, genética y cultura)メー・ワン・ホー(放送大学生物学講師)も自己組織化の多くの支持者だけではなくマイケル・デントンと同じように、すべての還元主義的方法では捉えきれないものとして生命を見ている。「生命は全体が組織される過程である。生命は過程であり、ものでも物質の性質でも構造でもない。このように生命は生物が生き、成長し、発育し、進化するように物質とエネルギーがダイナミックに流れる中にあるはずである。したがって、『全体』とは分離されたモナドのような実体ではないことがわかる。それは自己構築と自己組織化される環境に開かれたシステムであり、外の環境に開かれ、その潜在能力が高度に再生可能な安定した形態の中に取り込まれることにより可能になる」
ここで最も重要な言葉のひとつが創発である。複雑な形態は、それが潜在的、仮想的なものであれ前もって存在するものは何一つない。複雑な形態は生命の過程から創発する。なぜなら、この創発を可能にする過程は自然そのものの中にあるからである。メー・ワン・ホーとブライアン・グッドウィンは明らかにスチュアート・カウフマンよりダーウィン主義から離れたところにいる。彼らはダーウィン主義のメカニズムが進化において主要な役割を担っていないと考えている。より複雑な形態は、選択ではなく自己組織化により自然の中に創発するのである。
哲学的レベルにおいて、自己組織化の支持者は少なくともヨーロッパでは汎神論かアニミズムに関連すると見られている。それは、この学派の科学者の大部分が汎神論的な考え方(あるいは、フランシスコ・ヴァレラのような仏教の考え方)を持っているからであり、創発の概念はアリストテレスにより与えられた意味における 「第一の動力」 や初めて創り出すためのすべて外在性を必要としなくなるからである。しかし、何人かの神学者や哲学者(ニールス・グレゲルセンやフィリップ・クレイトンなど)は、特にホワイトヘッドに触発されたプロセス神学に依拠して、創発や自己組織間についてのキリスト教的概念を展開しようとし、またこの領域における複数の考え方の存在を主張するために、テレンス・ディーコンのような汎神論の自己組織化の支持者と戦っているのは注目に値する。21世紀に自己組織化が重要なパラダイムとして避けられないことを考えると、二つの概念が近づくことには問題がありそうだが、そこにキリスト教が不在であることを彼らは望んでいない。
dimanche 7 mars 2010
第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (10)
強い非ダーウィン主義者:偶然と自然選択を超えて
1.進化の反復性
マイケル・デントン(ニュージーランド、オタゴ大学教授の生化学者、遺伝学者で、目の遺伝学の専門家)は、クリスチャン・ド・デューブよりさらに遠くに行っているコンウェイ・モリスよりもさらに遠くへ行こうとする。彼のものの見方は、生物学的形態は任意のものではなく、複雑な数学的形を取り入れていると説明するダーシー・トンプソン(後述)と同様の考え方から出発する。蛋白の形は物理学により与えられたものであるという命題を示す「プラトン主義の形態としての蛋白の折りたたみ:自然の法則による進化の前ダーウィン主義の概念への新しい支持」という暗示的なタイトルの論文で、それが正しいことを明らかにする。蛋白はそれ自身で折りたたまれる。理論的には、非常に多くの異なったやり方で折りたたまれ得るが、実際には、蛋白には1000を少し超えた基本形しか存在しない。したがって、雪の結晶が常に6角形を取るように、「蛋白の中に隠れた形」が存在する。そこからデントンは、蛋白を超えて細胞でも、生物においても同様であると提唱することになる。このような元型となる形の存在は、自然の法則により導かれた進化の理解へとわれわれを導く。
「例えば、紡錘体の構造やラッパムシのような繊毛原生生物の細胞形のような細胞質の形にローバストネスがあることは、おそらくこれらの形もまた物理学の法則で決定される例外的に安定でエネルギー面でも有利な構造であることを示唆している。もし非常に多くのより優れた生物の形態が普通であることが明らかになれば、その意味するところは決定的で、大きな影響力を持つだろう。それは、物理学の法則が生物の形態の進化において、一般に考えられている以上に重要な役割を担っていたことを意味している。そして、それはまたダーウィン主義以前の考え方への回帰を意味することになる。その考え方によると、生物のすべての多様性を土台とした自然な形態の最終的な集合は、炭素を基礎に置く生命のある宇宙の至るところで常に再現される」。考慮すべきは、コンウェイ・モリスもこのような結論を主張していることである。
「ダーウィン主義以前の考え方への回帰」 と言うが、デントンは非ダーウィン主義については語りたがらず、エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールのような「合理的形態学者」の考え方のような進化論の概念について語る。それは、生命のすべての多様性の背後には、ある型の統一性を確保する基本的な要素があるとするものである(例えば、違いがあるにもかかわらず、地上の脊椎動物の足はひとつの共通の原則に従っている。この派の科学者は、脊椎動物が共通祖先に由来するという事実だけでこの統一性は説明できないと考える。臓器の形は合理的な基準に従うのであり、遺伝の法則だけに従うものではない)。
デントンの主著「進化に意味はあるか?」は、ブリッジウォーターの論文(当時の最も卓越した人により1830年に編纂された8つの著作)、生命と環境の完全な適合を書いたローレンス・ヘンダーソンの論文、あるいはもし時計に出会ったならば、そこに時計職人の存在を認めないわけにはいかないとするウィリアム・ぺイリーの有名な論文などのイギリスの「自然神学」の優れた伝統に属する。フランスでは「自然神学」は害を被っている。それは、「自然神学」があくまでも最後に神学的な結論を引き出すために現実の観察から出発することを知らない人たちが、「自然神学」は科学ではなく神学の本であるので読むに値しないと考えたためである。
その解釈は全く不正確である。この本に見られる神学的ないくつかの結論を除くと、純粋に科学的な500ページの中に次のことが示されている。
― 炭素は複雑系を仕上げるための考えられる最良の原子である。
― 水は炭素に基づく生命に考えられる最良の適応をした液体である。
― 重炭酸塩は炭素に基づく生命の考えられる最良の緩衝である。
― 大気のみならず水を通過できる太陽光スペクトルの領域だけは生命にとって最も有用である。など。
「目的論の命題の力の源泉は、自らに都合のよい議論を集めることである。その命題はひとつの証拠に基づくのではない。これらすべての証拠の追加、生命の非常に特殊な目的に向けて説得力をもって導く偶然の長い繋がり、そして独立したこれらすべての証拠が目的論の素晴らしい全体性を示すためにお互いに収まりをつけるという事実に基づいている。進化の領域では、命題は証拠の追加の中からも引き出される。一つひとつを取り上げると、これらの証拠はひとつの可能性を示すに過ぎない。しかし、全体として考えると、それが導かれた進化という概念を強く支持する全的なイメージを与えるのだ」
デントンは彼の誹謗者の主張をよく知っている。それは、もし宇宙がわれわれの存在に適応していないとすれば、われわれはここにいないことになるので、宇宙がひとつの計画に従った印象を与える必要があるというものである。しかし、もし自然の目的論的概念を主張することができるのであれば、「それは宇宙がある点において生命に適応するのではなく、最も適した状態で適応することを認めながらになる」。
この導かれた進化の仮説は間違いなく科学的で、全く宗教的、哲学的ではない(デントンに反対する者は一般的にこの点を忘れている)。なぜなら、それはポッパーの反証可能性を持っているからである。この説に反証するためには、「炭素に基づく生命にとって水と同程度に代替できる液体、二重らせんより性能のよい遺伝情報の保存媒体を作る方法、酸化に勝る生化学的過程、そして蛋白質、脂質二重膜、細胞系、重炭酸塩、リン酸塩などよりも性能のよい構造」を見つければよいだけのである。
デントンが理論的な結論を引き出すのはそれらすべての後のことである。「神が人間の形を創ったことを前提とする受肉という教義により、キリスト教ほど宇宙における人間の絶対的中心性や特異性に依存している宗教はない。中世キリスト教の人間中心的な見方は、人間が作り出した最も奇妙な考え方だろう。それは根本的で決定的に思いあがった理論である。厚かましさにおいてこの理論に匹敵するものはない。なぜなら、すべてが人間の存在と関係があるからである。・・・科学革命がアリストテレスを追放し、目的論的思弁を時代遅れのものにし、この考え方を破壊したかに見える4世紀後、絶え間なく続く発見の流れは目的論に見事に回帰した。4世紀の間無神論と強く結びついていたかに見える科学は、2千年紀の終わりについにニュートンや彼の多くの初期の支持者が切に望んでいたもの、すなわち人間中心主義的信仰の擁護者になったのである」
このように「コペルニクスの亡霊」を祓うことができる。人間は地理学的には最早宇宙の中心にはいないが、より微妙なやり方で宇宙の進化の最終点として中心的な位置を取り戻している。これらの文章を読んだ人には驚きに見えるだろうが、デントンはキリスト教信者ではない。彼がしていることは、自然の化学的、生化学的性質の中に見る一連の偶然の一致がキリスト教神学の中心的な論点を支持していることを認めさせるだけなのである。
彼の現在の仕事は、生気論と生物は機械と根本的に異なることの証明を復権することである。
「生物の領域における還元主義の完全な失敗と新しい形を作り出す試みの完全な失敗は、機械の領域と対照的である。飛行機やタイプライターの特徴や全体の動きは、構成要素の完全な分析を「下から」することにより非常に正確に予見できる。それは機械の構成要素が複雑な相互作用やフィードバックを組み込まなかったからである。・・・反対に、有機的なシステムは本質的には全体から部分に向かうトップ・ダウンが実体である。有機的な形態は部分を超えた全体性であり、そのものに特有で、しかも全体の機能においてのみ現れる秩序を持っている。・・・有機的な集合は独立した分子からひとつずつ積み上げて組み立てることはできない。なぜならその部分は全体の中にしか存在しないからである」
考慮すべき興味深い点は、生物は機械と類似すると考えるダーウィン主義やインテリジェント・デザインを彼が同時に反駁していることである。
1.進化の反復性
マイケル・デントン(ニュージーランド、オタゴ大学教授の生化学者、遺伝学者で、目の遺伝学の専門家)は、クリスチャン・ド・デューブよりさらに遠くに行っているコンウェイ・モリスよりもさらに遠くへ行こうとする。彼のものの見方は、生物学的形態は任意のものではなく、複雑な数学的形を取り入れていると説明するダーシー・トンプソン(後述)と同様の考え方から出発する。蛋白の形は物理学により与えられたものであるという命題を示す「プラトン主義の形態としての蛋白の折りたたみ:自然の法則による進化の前ダーウィン主義の概念への新しい支持」という暗示的なタイトルの論文で、それが正しいことを明らかにする。蛋白はそれ自身で折りたたまれる。理論的には、非常に多くの異なったやり方で折りたたまれ得るが、実際には、蛋白には1000を少し超えた基本形しか存在しない。したがって、雪の結晶が常に6角形を取るように、「蛋白の中に隠れた形」が存在する。そこからデントンは、蛋白を超えて細胞でも、生物においても同様であると提唱することになる。このような元型となる形の存在は、自然の法則により導かれた進化の理解へとわれわれを導く。
「例えば、紡錘体の構造やラッパムシのような繊毛原生生物の細胞形のような細胞質の形にローバストネスがあることは、おそらくこれらの形もまた物理学の法則で決定される例外的に安定でエネルギー面でも有利な構造であることを示唆している。もし非常に多くのより優れた生物の形態が普通であることが明らかになれば、その意味するところは決定的で、大きな影響力を持つだろう。それは、物理学の法則が生物の形態の進化において、一般に考えられている以上に重要な役割を担っていたことを意味している。そして、それはまたダーウィン主義以前の考え方への回帰を意味することになる。その考え方によると、生物のすべての多様性を土台とした自然な形態の最終的な集合は、炭素を基礎に置く生命のある宇宙の至るところで常に再現される」。考慮すべきは、コンウェイ・モリスもこのような結論を主張していることである。
「ダーウィン主義以前の考え方への回帰」 と言うが、デントンは非ダーウィン主義については語りたがらず、エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールのような「合理的形態学者」の考え方のような進化論の概念について語る。それは、生命のすべての多様性の背後には、ある型の統一性を確保する基本的な要素があるとするものである(例えば、違いがあるにもかかわらず、地上の脊椎動物の足はひとつの共通の原則に従っている。この派の科学者は、脊椎動物が共通祖先に由来するという事実だけでこの統一性は説明できないと考える。臓器の形は合理的な基準に従うのであり、遺伝の法則だけに従うものではない)。
デントンの主著「進化に意味はあるか?」は、ブリッジウォーターの論文(当時の最も卓越した人により1830年に編纂された8つの著作)、生命と環境の完全な適合を書いたローレンス・ヘンダーソンの論文、あるいはもし時計に出会ったならば、そこに時計職人の存在を認めないわけにはいかないとするウィリアム・ぺイリーの有名な論文などのイギリスの「自然神学」の優れた伝統に属する。フランスでは「自然神学」は害を被っている。それは、「自然神学」があくまでも最後に神学的な結論を引き出すために現実の観察から出発することを知らない人たちが、「自然神学」は科学ではなく神学の本であるので読むに値しないと考えたためである。
その解釈は全く不正確である。この本に見られる神学的ないくつかの結論を除くと、純粋に科学的な500ページの中に次のことが示されている。
― 炭素は複雑系を仕上げるための考えられる最良の原子である。
― 水は炭素に基づく生命に考えられる最良の適応をした液体である。
― 重炭酸塩は炭素に基づく生命の考えられる最良の緩衝である。
― 大気のみならず水を通過できる太陽光スペクトルの領域だけは生命にとって最も有用である。など。
「目的論の命題の力の源泉は、自らに都合のよい議論を集めることである。その命題はひとつの証拠に基づくのではない。これらすべての証拠の追加、生命の非常に特殊な目的に向けて説得力をもって導く偶然の長い繋がり、そして独立したこれらすべての証拠が目的論の素晴らしい全体性を示すためにお互いに収まりをつけるという事実に基づいている。進化の領域では、命題は証拠の追加の中からも引き出される。一つひとつを取り上げると、これらの証拠はひとつの可能性を示すに過ぎない。しかし、全体として考えると、それが導かれた進化という概念を強く支持する全的なイメージを与えるのだ」
デントンは彼の誹謗者の主張をよく知っている。それは、もし宇宙がわれわれの存在に適応していないとすれば、われわれはここにいないことになるので、宇宙がひとつの計画に従った印象を与える必要があるというものである。しかし、もし自然の目的論的概念を主張することができるのであれば、「それは宇宙がある点において生命に適応するのではなく、最も適した状態で適応することを認めながらになる」。
この導かれた進化の仮説は間違いなく科学的で、全く宗教的、哲学的ではない(デントンに反対する者は一般的にこの点を忘れている)。なぜなら、それはポッパーの反証可能性を持っているからである。この説に反証するためには、「炭素に基づく生命にとって水と同程度に代替できる液体、二重らせんより性能のよい遺伝情報の保存媒体を作る方法、酸化に勝る生化学的過程、そして蛋白質、脂質二重膜、細胞系、重炭酸塩、リン酸塩などよりも性能のよい構造」を見つければよいだけのである。
デントンが理論的な結論を引き出すのはそれらすべての後のことである。「神が人間の形を創ったことを前提とする受肉という教義により、キリスト教ほど宇宙における人間の絶対的中心性や特異性に依存している宗教はない。中世キリスト教の人間中心的な見方は、人間が作り出した最も奇妙な考え方だろう。それは根本的で決定的に思いあがった理論である。厚かましさにおいてこの理論に匹敵するものはない。なぜなら、すべてが人間の存在と関係があるからである。・・・科学革命がアリストテレスを追放し、目的論的思弁を時代遅れのものにし、この考え方を破壊したかに見える4世紀後、絶え間なく続く発見の流れは目的論に見事に回帰した。4世紀の間無神論と強く結びついていたかに見える科学は、2千年紀の終わりについにニュートンや彼の多くの初期の支持者が切に望んでいたもの、すなわち人間中心主義的信仰の擁護者になったのである」
このように「コペルニクスの亡霊」を祓うことができる。人間は地理学的には最早宇宙の中心にはいないが、より微妙なやり方で宇宙の進化の最終点として中心的な位置を取り戻している。これらの文章を読んだ人には驚きに見えるだろうが、デントンはキリスト教信者ではない。彼がしていることは、自然の化学的、生化学的性質の中に見る一連の偶然の一致がキリスト教神学の中心的な論点を支持していることを認めさせるだけなのである。
彼の現在の仕事は、生気論と生物は機械と根本的に異なることの証明を復権することである。
「生物の領域における還元主義の完全な失敗と新しい形を作り出す試みの完全な失敗は、機械の領域と対照的である。飛行機やタイプライターの特徴や全体の動きは、構成要素の完全な分析を「下から」することにより非常に正確に予見できる。それは機械の構成要素が複雑な相互作用やフィードバックを組み込まなかったからである。・・・反対に、有機的なシステムは本質的には全体から部分に向かうトップ・ダウンが実体である。有機的な形態は部分を超えた全体性であり、そのものに特有で、しかも全体の機能においてのみ現れる秩序を持っている。・・・有機的な集合は独立した分子からひとつずつ積み上げて組み立てることはできない。なぜならその部分は全体の中にしか存在しないからである」
考慮すべき興味深い点は、生物は機械と類似すると考えるダーウィン主義やインテリジェント・デザインを彼が同時に反駁していることである。
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