vendredi 19 décembre 2008

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (1)

10章 進化の進化

「進化の決定版の理論より、進化のいくつかの理論を語るのが適当である。この複数形が一方では進化のメカニズムに対して提唱された説明の多様性に、他方では参考にする多様な哲学につながるのである」
ヨハネ・パウロ2世
ローマ教皇科学アカデミーへの手紙
1996年10月22日


対峙する異なる学派

この第IV部で出された疑問とともに進化の生物学の領域に入る。これは取るに足らない問題ではない。雑音と激しい怒りに溢れる領域である。実際のところ、われわれは歴史の輝かしい偶然によるのか、われわれの存在はある過程、ひとつの論理のようなものに組み込まれているのかという人間の立場の核心にも関わる領域である。

しかし、自らの存在の意味の有無を少しでも理解したいと思うすべての人にとってまさに核心をなすこの問は、すでにある一連の哲学やイデオロギー、さらには論争が直ちに引き起こす感情的な要素によって曖昧なものにされている。

この領域は、あのガリレオ事件が引き起こした文化的、歴史的余波がある天文学以上に科学と宗教が対立した、そしてある国においては現在も対立している重要な領域なのである。それは最初から、1860年6月30日にオックスフォードの司教サミュエル・ウィルバーフォースとダーウィンの精力的な擁護者ゆえに「ダーウィンのブルドック」とあだ名されていたトマス・ハックスレーとの間でオックスフォードで行われた有名な論争からのことであった(ダーウィンの主著「自然選択による種の起源」が1859年11月に出版されてから1年も経っていない。タイトルの最初の部分がしばしば忘れられていることに要注意)。

二人の優れた雄弁家の間で交わされた議論の代わりに個人的な攻撃(ウィルバーフォースはハックスレーに「あなたはサルの父親とサルの母親のどちらから生まれたのか」と問うと、ハックスレーは司教よりはサルから生まれるのを望むと答えた)が科学の歴史に残されていることは、この論争で冷静さと客観性を保つのがどれだけ難しいものかを示している。

それではこれからどのように話を進めようか?
― まずいくつかの概念を定義したい。他のところ以上にここでは言葉の意味が不明確だと混乱のもとになるからである。
― それからできるだけ客観的に異なる思想的学派を代表する何人かの科学者の立場を紹介しよう。
― ここでは生命科学に関連した領域の科学者に絞ることにしたい。

事実、進化の問題は非常に重要で、物理学者、社会学者、法律家、数学者、天文学者がしばしば自らのテーマとするほどである。ここでは動物学者、古生物学者、分子生物学者、遺伝学者、動物行動学者、人類学者、医者、さらにモデル化の専門家、一言で言うと生物にかかわるすべての専門家についてだけ扱うことにする。それは生物に関する正確な知識がないとして非難される可能性のある他の領域の代表者によってこの論争が歪曲されないためである。稀な例を除き、現在生存している人の作品を解析することにする。それは論争が最も新しいアイディアや事実により解明されなければならないことと時代の流れに逆らい時代遅れのことをしているとの批判を避けるためである。

次の11章ではネオダーウィニズムでは地球上の生命の進化を(さらに言うと、宇宙のどこにおいても存在しうる生命についても)うまく説明できないと考えるに至った事実や理論的・現実的な理由を詳しく解析したい。12章では、ニュートンの理論を相対性理論が飲み込んでしまったように、いつの日かダーウィニズムを飲み込む理論の下絵になる可能性のある材料を集めたい。この統合は個人的なものになるが、各々の材料は生命の進化を説明する資格のある科学者から拝借することになる。それからこれから可能な研究の方向性を検討し、その覇権(ヘゲモニー)を維持するためにダーウィン主義者が用いてきた戦略を分析する。

重要なことは、このすべての道程が形而上学や宗教ではなく科学から出発していることである。

事実と理論を区別することは重要である。
われわれは何度ダーウィン主義からの進化を、特にアメリカの出版物において見るだろうか。そこには終わることのない誤解があり、それは創造論者、科学者を問わずすべての反啓蒙主義者が利用するところとなっている。

進化とは「すべての生物は子孫のつながりによって結びついている以外の何物でもないことを意味しているが、この定義は進化による変化がどのようなメカニズムによっているのかについては何も語っていない」。進化とダーウィニズムの大家であったシュテファン・ジェイ・グールドのこの言葉は、明晰さという点で優れている。

ここでは進化は一つの事実であり、ダーウィニズムはこの事実の一つの説明であることをはっきりと確認したい。すべての生物は共通の祖先を持つことを明らかにするために時間を費やすことはしない。

(以下、抄訳)

進化は事実であり、時間を遡ると猿から魚、無脊椎動物、最後は細菌に辿り着くことにはあらゆる証拠が揃っている。これに対して、地上の異なる種が別々に創造されたはずだとする創造論の不合理さはどこから来るのか。それは、進化の存在そのものについて判断を下さない不可知論とは異なり、存在しない事実は説明できないという立場でもない。

フィリップ・ジョンソン Philip Johnson (カリフォルニア大学バークレー校の法学教授でインテリジェント・デザイン ID 運動の創始者の一人) のように、そのメカニズムを充分に説明できないので進化を事実として捉えないことも可能だとする立場も理に叶わない。それは、ニュートンの説ではなぜ地球が太陽の周りを回っているのか説明できないのでアインシュタインの説が出るまでは太陽の周りを地球が回っていることを事実としないのと同じように不合理なものである。


mardi 16 décembre 2008

序文 ― チン・スアン・トゥアン

人間は遥か昔からすべての文化において、無限に広がる宇宙の不安を払いのけるために外界にある情報の断片を組織化して、統一された矛盾のない考えを作り上げてきた。このように次々と宇宙について考えられ、その表現は時代と歴史によって多様な形を取ってきた。数万年前、人間は霊に満ちた不思議の宇宙に生きていた。昼間は太陽の霊、夜は月と星の霊、つまずきそして許しを請う石の霊、溢れるように流れる川の霊、一言で言えば人間に見合った、親しみがあり力づけてくれる宇宙であった。

知の蓄積とともに、無知が姿を消した。人間は次第に周りで起こる現象の複雑さや宇宙の壮大さを前にした自らの無意味さと無力さに気付くことになった。ほぼ1万年前、人間的な不思議の宇宙が超人間的な神秘の宇宙に取って変わり、そこに神々が君臨するようになった。霊は木々や花々、そして川から立ち去っていった。宇宙の創造も含めたすべての自然現象は、この神々の行為、愛と接合、憎悪と戦いの結果であった。この神秘的な宇宙とともに宗教が登場した。神々との会話はもはや直接できなくなり、特権を与えられた聖職者を介することになった。この宇宙と宗教の関係は、科学的宇宙が神秘的宇宙の地位を奪うまで3000年ちかくも続いた。

紀元前6世紀頃、「ギリシャの奇跡」が突然起こった。神秘的宇宙のただ中にあって、一握りの素晴らしい人間が世界は異なる要素に分解でき、しかもその要素は人間の理性で理解可能な法則で規定されているという革命的な直感を持った。もはや理解しないで自然現象を眺めたり、盲目的に神に身を委ねるということはなくなった。この科学的宇宙は今日われわれのものであり続けている。

古代ギリシャ人は地球が世界の中心であると考えていた。この地球中心の宇宙観は20世紀以上に亘って君臨したが、1543年コペルニクスが地球を宇宙における中心的位置から追い払うことになった。そして空間と時間における人間の容赦のない貶めが始まった。1687年のニュートンによる万有引力の法則の発見とともに、宇宙は機械的で決定論の上に成り立つものとなった。17世紀の終わりに人間はもはや無限の宇宙の中心にはいないという世界観を持った(ニュートンは、もし宇宙に限界があるならば中心がなければならないと考え、重力はすべてをその中心にもっていくようにすると考えたが、これは観察結果と一致しないものであった)。

この広大な宇宙で無意味なものにさせられた19世紀の西洋の人間は、天空とのつながりを夢見て自らを慰めていた。所詮、人間はアダムとイヴの末裔である。宇宙における中心的な立場を失ったとしても、神の加護のもとにある子である。チャールズ・ダーウィンはこの慰めに身を委ねることはなかった。1859年に「種の起源」を出版した博物学者、人間の起源は気高いものなどではないことを示すことになる。時を遡ると、その先祖は順に霊長類、爬虫類、魚類、無脊椎動物を経て、最終的には原始的な細胞へと辿り着く。ニュートンが計算した6000年という宇宙の年齢は問い直された。生物学的な進化が行われるためには何百万年もの時間が必要となることが、地質学研究から確認されている。空間の中を拡大した宇宙は、時間の流れの中で現在まで拡大してきた。

19世紀末と20世紀の発見は宇宙における人間の立場を小さなものにし続けた。銀河系を計測すると、径が9万光年の円盤状をしており、太陽は何億とある銀河系の星のひとつにしか過ぎないことがわかった。太陽系の大きさは銀河系の大きさに比べると百万分の一程度になり、それは太平洋にいるアメーバほどの大きさにしか過ぎないのだ。また人間の度を越したエゴがこう考えた。もし地球がこの世界の中心にないとすれば、きっと銀河系の中心にあるに違いないと(当分の間は銀河系が宇宙全体を構成していた)。しかし、である。天文学者は太陽が銀河系の円盤の半分より少しだけ辺縁に位置する一つの星に過ぎないことを示してしまった。コペルニクスの亡霊が今でも驚かし続けている。1923年、エドウィン・ハベルは銀河系の外に他の銀河の存在を発見する。宇宙は次第に拡大し、やがて太陽系がすでに巨大な銀河系の中に沈んでいくのと全く同じように、われわれの銀河系は宇宙の壮大さの中に消えてゆくだろう。今日、この銀河系は観測可能な宇宙を入れている何億という銀河の中の一つにしか過ぎない。

現在地球上で、すなわち宇宙の中で最も性能のよい望遠鏡は、千万光年ほどの距離にある銀河の光を捉えることができる。光がわれわれのところに届くには時間がかかるので、遠くを見るということは昔を見ることになる。月の光が地球に届くには1秒を僅かに越える時間がかかる。太陽の場合は8分、最も近い星は4年、最も近いアンドロメダ銀河のようなものであれば2百万年(この数字は、アンドロメダの光が出た時には最初の人類がアフリカのどこかを歩いた時とほぼ一致することを意味している)、それから最も近い銀河の集積の光は5千万年もかかるという具合である。

天文学者がわれわれの起源の歴史を再現できたのは、時間を遡る道具として望遠鏡を使ったからである。今日、われわれは常に壮麗で魅了して止まない歴史の一大絵巻を手にしている。われわれの起源に関する歴史がこれほど長い時間とこれほど広大な空間の中で展開したことは未だかつてなかった。今日、宇宙はビッグバンという空間と時間を生んだ140億年ほど前の衝撃的な爆発の中で生まれたと考えられている。それ以来、絶え間なく複雑さを増し続けている。原始の顕微鏡的空隙から宇宙は素粒子の最初のピュレを作った。自然界の最も単純で軽い水素やヘリウムの原子核は、ビッグバンの3分後から出現した。宇宙の拡大と拡散のために、生命や意識を生むために必要となる重い元素は原始の宇宙では形成されなかった。その不毛を避けるために宇宙は星を発明した。

核による素晴らしい錬金術によって生命と意識に必要となる複雑な化学成分を作ったのがこれらの星である。45億5千万年前、観測可能な宇宙にある数百億にも及ぶ星雲の中で銀河系という星雲において星間雲が重力の影響で崩れ、太陽とその8つのお連れを生み出した。太陽から3つ目の地球と呼ばれる惑星には、 38億年ほど前に生命が目覚めた。350万年ほど前には最初のヒト科の生物が地上を歩き、250万年前には最初の道具を発明した。20万年ほど前の人間の出現とともに反省や象徴的な思考をするようになった。それ以来、ヒトは宇宙の美しさや調和を前にして感嘆し、それを生み出した宇宙についての疑問を発することができるようになった。

ショーヴェ洞窟の壁画は3万年前ほど前に描かれ、3千年ほど前に文化が生まれた。宇宙の歴史におけるヒトの位置は著しく小さなものとなった。もし宇宙の140億年を1年に換算した暦を想像すると、人類のすべての発展はその1年の最後のわずか2時間で起こったことになる。最初の人類が歩き始めたのは、12月31日の午後9時49分になる。抽象についての意味が人類にわかるようになったのは、1年の最後の数分のことでしかない。石器を作り始めたのが午後11時59分26秒で、農業を発明したのが午後11時59分37秒のことである。天文学が現れたのが午後11時59 分50秒、それにアルファベットは午後11時59分53秒、鉄の冶金術は午後11時59分58秒と続いている。ルネサンスや実験科学の到来は、1年の最後の1秒で起こったことにしか過ぎない。

このように時間的、空間的に人間の占める場所が縮小していることに直面すると幻滅が生まれた。ある者は、宇宙における知性や意識の出現は偶然の成せる単なる出来事、宇宙の長い歴史の流れの中での事故にしか過ぎないと言い出した。宇宙にとってわれわれの存在は何の意味もなかった。宇宙はわれわれの存在など全く気に掛けていなかった。本書のタイトルで出された問いに対する答えは、われわれの存在には何の意味もないという否定である。このように人間の意識を無意味なものに帰すことにより、ある者は悩むようになった。「無限の空間の永遠の沈黙が私を恐怖に陥れる」というパスカルが発した途方もない苦痛の叫びに対して、ジョン・ストーンが序で触れているように、3世紀を経て悲観的な見方が答えている。フランスの生物学者ジャック・モノは「人間は自らを偶然に出現させた宇宙の無頓着な壮大さの中で忘れられている」と言い、アメリカの物理学者スティーヴン・ワインバーグは「宇宙を理解すればするほど、益々われわれには意味のないものに見えてくる」と言っている。

私は本書の著者と同様に、世界を絶望的に捉える見方には同意しかねる。逆に本書が幅広く呼応している科学の新しい発見とその形而上学的意味が世界を再び魅了したと考えている。その理由の第一は、現代宇宙論が人間と宇宙との古くからの協調関係を再発見したこと。第二には、われわれすべては星の塵から作られ、星の核による錬金術によって作られた重い成分から構成されているのでサバンナのカモシカや池の蓮と同じ宇宙での系図に属していること。さらに、前世紀に数学と同様に物理学、天体物理学、生物学、神経生物学、古生物学で成された素晴らしい科学的発見により、世界がもっと魅力に溢れ、もっと豊かであることが明らかにされたことである。過ぎ去った世紀は、本書でジョン・ストーンが示すように、われわれの世界の見方を総合的で明快で簡潔なやり方で一変させた。

物理学において、3世紀にわたって西洋思想を支配した後、断片化され機械論的で決定論的なニュートン的見方は全的で不確実で創造性に溢れた世界の見方に道を譲った。ニュートンにとって、宇宙は盲目的な力に従う無機質な物質の粒子から成る巨大な機械にしか過ぎなかった。わずかな物理学の法則から、ある瞬間におけるあるシステムを特徴付けることができれば、そのシステムのすべての出来事は説明、予見可能であった。ラプラスは決定論的信念をこのように表現している。「宇宙の最大の物体や最小の原子の運動を同じ公式で理解する知性にとって、不確実なものは何もないだろう。未来は過去と同じように彼らの目の前にあるだろう」と。

宇宙は拘束状態に置かれ、すべての創造性は取り除かれ、すべての革新は不可能になった。それは還元主義が支配する世界であった。複雑なシステム全体を最も単純な成分に分解し、全体を理解するためにその部分の行動を研究すれば充分であった。なぜなら全体は構成成分の総計より多くもなく少なくもなかったからである。この限定的で不毛な還元主義、この硬直し非人間的な還元主義が19世紀の終わりまで支配的であった。20世紀に入り、この考えは覆され、変質し、最後にはもっと興奮を呼び起こす解放された見方によって一掃された。量子力学の出現に伴い、偶然が素粒子の世界にも入り込み、量子の刺激的な不確実性が退屈な決定論的確実性を置き換えていった。偏狭で単純な還元主義が一掃され、細分化され部分的にされた現実は全的になった。

2つの光粒子が反応した場合双方が覚えていて、宇宙に端に別れていようとも一方は他方がすることを情報の交換なしにすぐに知ることになる。素粒子の世界の現実は局所的なものでも別々にあるわけでもない。物質自体が実体を失い、素粒子は物や事実の世界ではなく潜在性や可能性の世界しか作らない。このように光子は本質的な存在なのではなく、測定器の作動の有無により波動の性質や粒子の形を自由に取るのである。換言すると、現実の本質は観察者によって決まるのである。巨視的世界は保持されることもなかった。

カオス理論によると、偶然、不確定性、予知不能性が日常生活のみならず惑星、星、銀河系にも入り込んできた。科学の進歩に伴い、その限界が見え始めてきた。専門的な測定器や検索方法で観察可能な現実を超えたところにベルナール・デスパニャが言うところの直接到達できない「ヴェールに覆われた現実」があることを科学は理解したのである。この科学的方法の限界は論理的な理論構築においても認められる。ゲーデルはある系の内に留まる限りその系が意味のあることを論理的に証明することが不可能であるという「不完全性定理」という驚くべき定理を確立した。それを証明するためには系の外に出なければならないのである。またゲーデルは、算術上は筋の通った矛盾のない系が、証明不能な命題、すなわち真偽を論理学で語ることができない数学的な言明を必然的に含むことを証明した。

不確実性、不明確性、不完全性、決定不能性。今や科学はすべてを知ることができないことを理解する。最後までとことん突き詰め究極の真実に到達するためには、現代科学の発見に照らされた神秘的、霊的直観のような他の知に訴える必要がある。科学と霊性は人間が真実を理解することを可能にする二つの補い合う窓である。ジョン・ストーンはこの相補性に光を当てる現代科学の形而上学的な意味を総合してこの素晴らしい本にまとめるという大きな仕事をした。科学は人間の文化のなかに再びその場所を取り戻さなければならない。過去においてあまりにも物質主義的で断片化され、還元主義的で機械的な見方によってその場から遥かに遠ざけられていた。本書がわれわれに豊かに示しているように、現時点ではそれはもはや事実ではなくなっている。

チン・スアン・トゥアン
シャルロットビル、2007年2月

mercredi 3 décembre 2008

はじめに

数年前に科学を少し離れたところから見るようになり、科学の意味や哲学・宗教などの周辺領域との関連に興味が湧いた時、ジョン・ストーン著 「われわれの存在に意味はあるか?」 の存在を知りました。これからこの本を少しずつ読みながら考えを深めるプロジェクトを始めることにしました。暇をみながらになりますので頓挫する可能性もありますが、ゆっくり歩みたいと思います。

なお、日本語への翻訳の場合には意訳が多くなったり、原文の段落を短くしたりすることもあると思います。ご批判とともにお付き合いいただければ幸いです。

Jean Staune, Notre existence a-t-elle un sens ? : Une enquête scientifique et philosophique. Presses de la Renaissance (22 mars 2007)


jeudi 11 décembre 2008
この翻訳は著者ジョン・ストーン博士の承諾の下に行っております。