jeudi 21 mai 2009

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (4)

エドワード・ウィルソン: 動物行動学者、社会性昆虫の専門家、ハーヴァード大学教授、膨大な著作「社会生物学」の著者

彼はこの本で、動物社会から人間社会に至るまで、遺伝学的決定論の最も完璧な見方を提供し、ドーキンスにおいてすでに見られた「生物はDNAによって考案された自らをさらに作るための手段にしか過ぎない」という決まり文句を例証しようとする。ウィルソンが社会性動物における利他主義の説明に全く苦労しないとしても、人間が見知らぬ人のために命を危険に曝すことになる利他主義を説明するのはより難しいように見える。

そこで彼は「群選択」に訴えることになる。ある集団は「私は見知らぬ人のために命を危険に曝すが、私が危険になった時には他の見知らぬ人が私のために命を賭してくれる」という相互に利他主義の行動を誘発する遺伝子を持つ。この遺伝子を持たない集団と向き合った時には、「相互の利他主義の遺伝子」を持つ集団がより連帯を強め生き残ることになる。その結果、今日ではすべての人間の文明において相互に利他主義を実践する。すなわち、そうしない文明は自然選択により排除されたのである。

このようにウィルソンは、われわれの行動のすべての特徴はその行動が成される群にとって有益なので選択されると考える。結局、社会学は生物学の一分野にしか過ぎなくなる。社会生物学と言われる所以である。ウィルソンはこの考えを宗教にまで応用する。

「宗教の永遠の逆説は、その実質の大部分が誤りであることを容易に証明されるのにもかかわらず、すべての社会で力を維持していることである。人間は知ることより信じることを好むのである」。これは障害にも見えるが、実際には社会の道徳的な結びつきを強めるのである。宗教がもたらす威光により、十戒のような戒律が大きな重要性を持っている。人間において、神の信仰を呼び覚ます遺伝子は自然選択により選択されたのである。最近の研究では「神の遺伝子」について言及され、われわれの脳が神を信仰するために作られるという説まで展開されている。

同様にして、われわれは教えを吹き込むようにプログラムされている。「人間を教化することは全く自然である。人間はそれしか求めないのだ。・・・一致することが余り見られなくなると、その集団が消滅することになる。個人主義者がすべての利益を主張し、他者の障害へと発展するからだ。それが社会の脆弱性を増強し、その消滅を早めることになる。一致を生み出す遺伝子の頻度が高い社会が消滅する社会に代わり、全人口におけるその遺伝子の頻度を増加させるのだ」

それでは同性愛の場合はどうだろうか。それも同じ理屈である。同性愛者は生殖しない(そのため彼らの遺伝子は消滅する)が、彼らがいることがそのグループにとって有益である可能性があり、そのことがこの遺伝子が潜在する集団に有利に働いているのだ。「原始社会の同性愛構成員は補助的な役割を担っていた可能性がある。・・・親としての義務から解放され、彼らは補助的役割をする人として有益であったと考えられる」。ウィルソンはその数行下で、注意深くこう加えている。「このような遺伝子が存在するのか否かは、明確にされていない」。彼がこう書く時にはこの謙虚さは持ち合わせていない。

「狩猟・採集で生活している社会においては、男は狩猟に出て、女は家にいた。この傾向はほとんどすべての農耕社会や工業社会に存続しており、この点で遺伝的な原因があるようだ。・・・同じ教育があり、すべての職業への就職の自由を女性は持っているが、男性が政治、ビジネス、科学の世界でより重要な役割を担い続けるだろう」


dimanche 8 mars 2009

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (3)

強いダーウィン主義者: 選択、そして選択以外はなし


リチャード・ドーキンス
:生物学者、オックスフォード大学教授

彼は疑いもない超ダーウィン主義者の先頭にいる。すべてが遺伝子で決められる漸進主義を情熱を持って力説し擁護する。もっとも有名な彼の著書「盲目の時計職人」の主題は次のようにまとめられるだろう。目のような複雑な臓器や他の生物の驚くべき特徴を見る時、それらを構想した設計者あるいは「偉大な時計職人」がいるはずだという直感を抱く。自然選択の盲目的な過程は何らの意思もなくこれらをやってのけることができるのである。「5%の視力は何もないよりはよい。5%の飛行能力は何もないよりはよい。今あるすべての臓器や器官はそれぞれの中間過程が生存と生殖に貢献するという軌道、可能な動物の形を再編する空間における軌道をスムーズに進んだ結果であることを全面的に納得することができる。実際に生きている動物において、一度にそれができるためにはあまりにも複雑な臓器Xを持つすべての場合、自然選択の説ではXの一部はXが何もないよりはよく、一つのXよりは二つのXがよりよいと考える」

彼は原生動物が光に向かうことを可能にする光感受性を持った一つの細胞からいくつかの光感受性細胞が再編され、われわれの目に近いが水晶体のない構造を持つオウムガイを経てわれわれのような目に至る進化の過程を注意深く解説する。理論面では、彼は最終的に変異と選択の威力を示すようになっているプログラムを展開する。単純なYから始まり、このプログラムは異なる方向にある異なる特徴を決めている遺伝子に突然起こる変異によって新たな特徴を加えていくのである。選択は自然ではない。それぞれの世代で異なる変異の中から、ドーキンスが最も将来性があると考えるイメージを選択するのである。何百世代のうちに、彼は昆虫、蛙、サソリなどに似た形を得ることになる。

彼が過激主義者であり自然が生物に及ぼす制約を無視していることをいかに否定しようとも、ドーキンスが自然選択には生物を最適化する力があると考えていることは明らかである。彼は更にヘンリー・フォードが自動車のスクラップにあったT型フォードの残骸を調査させ、一つの部品だけでは決して壊れないと結論したことを語っている。その結果、フォードはその部品がほかの部品と同じように壊れるようにその質を低下させたのだ。なぜならその費用はT型フォードにとって無用になるからである。

ドーキンスは自然選択にはこのように生物を最適化する力があると、次のようにはっきりと言う。「サルの骨ごとに見られる骨折の頻度を調べるために、その死骸の調査を命じたとしよう。そして、一つの例外、腓骨を除いてすべての骨はいつかは折れることがわかるとしよう。・・・フォードはその腓骨をより低い基準に作り替えるように命じるだろう。それこそが自然選択がしていることになる。折れやすい腓骨を持つ個体は、成長期にカルシウムを少なく消費するために他の骨の成長や子供のための乳汁産生にカルシウムを使うことができるのである」

ドーキンスは跳躍進化説を批判している。それはすべての変異は偶然で起こるので、可能な動物の形態の中での大きな跳躍は、あり得ない例外を除いて死ということにしかならない。これをもとに、彼はスティーヴン・ジェイ・グールドを真っ向から攻撃している。

彼はダーウィン主義における信念を次のように語っている。「自然選択が蓄積することによる進化論は、複雑な有機体の存在を説明できるわれわれが知る唯一の説である。この説が事実と矛盾することがあったとしても、他にはこれより有効なものはないであろう」。このような信奉の理由として、彼は「競争相手になる説の貧困」を上げている。

しかし、ドーキンスは生物学的還元主義や「ヒトは遺伝子を再生産するための手段である」とする有名な「利己的遺伝子」でも知られている。「遺伝子はあなたや私の中にある。それが体や精神を作り、それを保存することこそ我々が存在する唯一の理由である」。彼によれば、自然選択で選択されるのは有機体ではなく遺伝子になる。ここで社会生物学の領域に入る。こどもを育てているヤマウズラのメスは外敵が巣に向かって来た時に注意を逸らすために自らが犠牲になる。社会生物学ではこの愛他的行為は遺伝子に指示されていると次のように考える。この遺伝子を持っているヤマウズラは持っていないものよりこどもを救う可能性が高く、この遺伝子が集団で優位になる。ヤマウズラはそれを知らずに、こどものためではなく遺伝子のために自らを犠牲にする。これこそが利己的遺伝子説の本質である。われわれのためではなく遺伝子の生存のためにほぼ最適な行動を取るように遺伝子により決定されているのだ。

生物学者のジョン・B.S.・ホールデンは「3人の兄弟、あるいは8人の従兄を救うためならば躊躇なく自らが犠牲になるだろう」と言った。なぜなら2人の兄弟は半分の遺伝子を共有しているので、3人の兄弟を救うと150%の遺伝子を取り戻すことができるからである。ドーキンス自身が「溺れかかった人を助けなければならない2度の機会にこのような計算(溺れている人に自分の遺伝子が何パーセントあるのか)をする時間がなかった」というホールデンの手紙を引用しているのは興味深い。彼に救われたものは幸いである。

ドーキンスは過激な無神論者としても有名である。彼は言う。「われわれが見ている宇宙は、初めに計画も合目的性も善悪もなく、慈悲もない盲目の無関心だけがある時に予期される特徴を持っている」。

彼は「神の有用性の機能」を解析する。「最大化を目指すところのものを有用性の機能と呼ぶ。例えば、ある政府の政策の解析により、有用性の機能は短期ではなく長期的に集団の収入、あるいは負債の減少、さらには教育の質を最大にすることと結論できる。もし神が存在するとして、神が何をすると言うのだろうか。チータの解析から、それはレイヨウの最大数を殺すことであることが明らかになる。レイヨウの解析からはチータから逃れることと考えられる。それでは神は一体どのような邪悪な働きを担っているのだろうか」。もちろん、ダーウィン以前には偉大な時計職人なしにどのようにして生物の途方もない複雑性が現れることになったのかを説明できなかった。無神論が知性にとって十分に満足すべき解決策であり得たのはダーウィンのおかげである。

ドーキンスは、神は重要な問題でないとしたり、この問題に触れないことで満足する無神論者ではない。彼は講演の中で神の存在と戦うために神をよく持ち出している。

ドーキンスとブライアン・グッドウィンとの討論の終りに、私は彼の妻にこう言った。
 「あなたの夫は神についてよく語るが、神に恐れを抱いていて悪魔祓いをしたいと思っていると言えるだろう」
彼女は私にこのような忘れがたい返答をした。
 「私の夫は神を恐れてはいませんが、神がわたしの夫を恐れているはずです!」


samedi 17 janvier 2009

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (2)

1. ダーウィニズム

ダーウィニズムは偶然に基づく変異によって進化が起こり、変異を持った個体が自然選択で選択されると考える。以下にダーウィン理論をまとめる。

● ある種に属する大部分の個体は、子孫に遺伝する細かな違いを持っている(今日では遺伝子の変異によるとされるが、ダーウィンはこのことは知らなかった。この点については、ネオ・ダーウィニズムが特に遺伝学の成果とダーウィンの考えの統合を図っている)
● これらの変異のいくつかのものは、それを持っていると有利に作用する
● すべての種は手にすることのできる資源に限りがある現実に向き合わうことになる(ダーウィンはマルサスの考えに霊感を得た)
● 有利な変異を持つ個体はその生存が容易になる。統計的には、彼らはより多くの子孫を持つことになり、時間が経つとその種のすべてが彼らの子孫になる。自然選択において有利な資質を持たない個体の子孫は消滅する。
● もし環境が激変した場合、新たな環境で生存できる変異を持つ個体が有利になり、直ちにその時点で「正常」とされる個体に取って変わる(この場合、自然選択の圧力が非常に強いと言う)。

このように、ダーウィニズムは進化が偶然によるとするのではなく、偶然と自然選択とをつなぎ合わせることにより進化が可能になると考える理論である。それゆえ、ダーウィンの著書の原題にもあるように、「自然選択による」進化論なのである。ダーウィンにとって自然選択は非常に重要で、「私の神」とまで言うことのできるものであった。進化を可能にしているのが、このデウス・エクス・マキナdeus ex machina” (機械仕掛けの神)なのである。

進化はゲノムで偶然に起こる変異だけによるものではないが、ダーウィニズムにとっての進化は目的のない盲目的で偶発的な過程に過ぎなくなる。なぜなら、それは変異と環境の変化という二つの不確実な現象の遭遇の結果だからである。

しかし、ダーウィニズムの中にはいくつかの異なった考え方がある。
自然は飛躍をしないと考える漸進主義者(gradualiste)と目に見える変異による飛躍が存在するとする跳躍進化論者(saltationniste)。生体のほとんどすべての特徴がある明確な理由で選択されたとする適応主義者(adaptationniste)、さらに中立主義者(neutraliste)はいくつかの構造は偶然の産物であったり、選択を受けた別の構造の副産物であったりすると考える(ここでの中立主義は木村資生の中立説よりも広い意味で使っている)。また、社会生物学者(sociobiologiste)はわれわれの行動も含むすべてが遺伝子の中にあるとする。

ただ、しばしばこれらのグループが再編される。跳躍進化論者が中立主義者になって社会生物学者に反対したりするが、これを弱いダーウィニズムと呼びたい。反対に、漸進主義者はしばしば確信的な適応主義者であり、社会生物学の強力な戦友になる。これは強い意味でのダーウィニズムになる。

しかし、両陣営とも偶発的な現象の結果としての進化というダーウィニズムの基本的な帰結には同意するのである。スティーヴン・ジェイ・グールドStephen Jay Gould、1941年9月10日 - 2002年5月20日)はその著書、"Full House: The Spread of Excellence From Plato to Darwin" (邦題 「フルハウス 生命の全容 - 四割打者の絶滅と進化の逆説」)で次のように表現している。

「現代の多細胞生物が出現するまでの生命の映画をカンブリア紀の爆発時に巻き戻し、同じ出発点から映画を再上映した場合、進化により地上には全く異なった生物が溢れるだろう。人間にわずかでも似ている生物が現れる確率はほとんど零で、意識を持った生物が出現する可能性も極めて低いのである」。

ダーウィンの時代には遺伝学がなかったのでダーウィニズムではなく、ネオ・ダーウィニズムに語らせなければならない。しかし、専門外ではこの両者が混同されているので、本書では同じものとして扱う。

2. 弱い非ダーウィン主義者

ここで使っている「弱い」とか「強い」という形容詞には価値判断は入っていない。直接的な繋がりはないが、人間の信条の強弱と類似するものである。この立場に立つ科学者は、自然選択と変異を進化のモーターであると考えている。しかし、もし進化の過程を繰り返すとした場合には、今地上にある生物が再び現れ、意識を持った生物についてもわれわれと同じとは言わないが、似たようなものがほとんど常に現れると考える。それは異なる過程を経るにしても最終的には同じところに辿り着くように進化を導く偶然に制限を加えることによる。これはダーウィン主義者にとっては異端であり、冒涜でさえある。彼らはダーウィン主義者を名乗るが、これが彼らを非ダーウィン主義者に分類した理由である。

3. 強い非ダーウィン主義者

彼らは偶然や自然選択だけが進化を誘導するものではないと考えている。「非ダーウィン主義的進化生物学」と呼ばれる学派を形成し、さらに2つに分けられる。

a. 自己組織化 (L'auto-organisation)

この学派は、秩序はある法則に基づいてカオスから生まれるとする。究極の目的はなく、進化が予測可能でもない。自然の法則により秩序が自然に生まれる。したがって、ダーウィンの自然選択はバイオスフィアにある一つの部分しか説明できていない。完全な説明のためには選択と自己組織化を同時に取り入れなければならない。この学派の中で、自己組織化を第一に考える人は強い意味での非ダーウィン主義者で、自己組織化と選択を同等に扱う人は弱い意味での非ダーウィン主義者ということになる。

進化論者を強いダーウィン主義者から強い非ダーウィン主義者に分類すると以下のようになるだろう。

Dawkins → Dennet → Gould → Kauffman → de Duve → Conway-Morris → Denton → Dambricourt → Chauvin

それぞれの境界は人工的なもので、ある人が弱いダーウィン主義者なのか弱い非ダーウィン主義者なのかを知ることは難しい場合がある。

b. 内的論理 (Logiques internes) と誘導される複合突然変異 (macromutations canalisées)

この分類には、生命の進化の最終目的に関与するか否かにかかわらず内的論理が存在すると考える人たちと、進化はプログラムされているのである目的が存在すると考える人たちがいる。

● 内的論理

この考えの持ち主は、プログラムとか進化を導く外的な力などを持ちだすことはない。ただ、胚の成長に関して内的な過程が存在し、それによって進化が予測可能になっていると考える。

● 誘導される複合突然変異

この範疇に入る人たちは、小突然変異(micromutation)はダーウィンのメカニズムに従うが、複合突然変異は偶然ではなく、まだ発見されていない法則によって制御されているとする。彼らにとって、この複合突然変異は常に漸進的ではなく、しばしば飛躍を伴う。したがって、すべてが偶然によるのではなく、複合突然変異が何かによって誘導されなければならない。

4. ネオ・ラマルク主義者

ラマルキズムは獲得形質は遺伝するという考えに基づいていた。有名な例によれば、もしキリンができるだけ高いところにある木の葉を食べるために首を長くしたとするならば、その仔は首がもと長くなるだろう。しかし、進化はそのようには作用しないことがわかっている。

しかし、ここ15年以来、遺伝情報が DNA → RNA → 蛋白 という方向だけで伝わるとする分子生物の中心ドグマにひびが入る研究成果が出ている。それは逆転写酵素があり、例えばエイズウィルスが RNA → DNA への反応を触媒するのに使用するだけではなく、このような変異が生物の生存に必要な場合にはしばしばみられることが明らかにされている。したがって、この変化はいつも偶然によるものではないことを示している。他の研究では、免疫系が獲得免疫を親から子に伝えることが示されている。

5. 量的進化

もしネオ・ダーウィニズムにおいて進化が中心的な役割を担っているとするならば、変異がないとすれば全く意味がなくなる。なぜならば、変異がなければ選択のしようがないからである。それでは変異とは何か。それは DNA の一塩基の置換である。分子レベルでの現象は、いくつかの原子、場合によっては素粒子に依存する。すでに見たように、原子と粒子の宇宙は、還元主義が強い分子生物学の世界とは概念上完全に異なっている。このように、物理学者が生物学者に対し、変異は量子レベルで起こる現象により影響される可能性を研究するように助言することが多くなっている。一般に生物学者はこの助言を軽蔑を持って拒絶する。しかし最近、この方向性で真剣に検討され、ここで語ることが可能になった(生命科学の専門家により指示されている立場であることだけを付け加えたい)。

6. インテリジェント・デザイン

この運動は基本的にはアメリカのもので、公式には「知性の表象の研究」が目的になっている。インテリジェント・デザインの擁護者は「還元不可能な複雑性」という概念を展開した。もしN個の異なる部分から成るある系が2つの部分を欠いた場合に機能せず、N-2個から成る系が既知の機能がない場合、それを還元不可能な程複雑だという。それは自然の過程からは形成されず、あるデザイナーが必要になる。

インテリジェント・デザインは宗教的要素は全くない科学運動だと主張している。実際には、進化論者、種々の創造論者、不可知論者を集め、創造論に変わるものを提供することを目的にしている。しばしば創造論者の自作自演 (faux-nez) だと考えられている。しかし、これから見るように、現実はもう少し複雑である。

7. 創造論者


ここでも言葉が誤解を招く。最も強いダーウィン主義者を含むすべての信仰を持つ科学者は「創造論者」であることは言うまでもない。なぜなら、彼らは宇宙の始まりには創造主がいたと信じているからである。生命科学でいう創造論者とは生物が共通の祖先を持っておらず、それぞれの種が別々に創られたと考えている人を指している。この原則を曲げるのは知的に非常に不誠実なことである。

創造論者は2つに分けられる。

●古い地球の創造論者: 天文学や地質学の研究成果を受け入れて地球の歴史は認めるが、系統樹を辿ると猿や魚があることを認めようとしない。
●若い地球の創造論者: これが大多数を占めるが、彼らは聖書の創世記を厳密に解釈することに固執し、天文学や地質学の成果、並びにすべての異なる方法で得られた地球の歴史を拒否する。地球は1万年以上の歴史を持つことはありえないと考えている。

創造論者は特にアメリカで導入され、そこからアングロサクソンのいくつかの国(オーストラリアやスイス)に展開された。大半はプロテスタントだが、イスラム教徒やカトリック教徒、ユダヤ教徒も含まれる。

他のすべての考え方とは反対に、私の知る限り生命科学者で創造論者である人は一人もいない。これは科学にとって誇るべきことである。もし明日にでも創造論を証明する実験のために100万ユーロを提供するとしても、CNRSやINSERM (あるいは相当する外国の組織)のポストを持つ生命科学者、あるいは主要大学の教授で名乗り出る者は一人もいないだろう。同様のことを非ダーウィニズム進化論についてやった場合には、10人ほどの候補者が出るだろう。すべての違いがここにある。

しかし、このことが創造論者が少ないということを意味しない。インターネットでは十数の創造論サイトがあり、生物学の教育を受けた100人単位の研究者が意見を発表している。しかし、彼らは創造論の雑誌に発表したり、創造論の研究所で働いている謂わば閉じた世界に生きている。そのことを理解した上で、進化の原因についての論争の主役を何人か取り上げてみたい。

ここではそれぞれの考えについて2-3人しか取り上げない。しかもその長さもまちまちになるので、主観的であることは免れない。