dimanche 14 mars 2010

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (12)

3. 内的論理

(photo source: Réflexions sur trois points)


レミー・ショーヴァン(ソルボンヌ大学名誉教授)は動物行動学者である。社会性昆虫のフランスにおける最高の専門家の一人である。ジョン・ピヴェトーのような重要な古生物学者やピエール・ポール・グラッセのような主要な動物学者により守られてきたフランスの伝統に従い、彼はダーウィン主義と自然選択の全能性に対して批判的であり、動物行動の専門家としては、特に社会生物学に批判的である。

ここに彼特有の挑発的なスタイルで書かれたショーヴァンの考え方をまとめてみたい。

「― 生命は、安全のための膨大な余力、非常に幅広い環境の変化に対する著しい適応性、そして同じ問題に対して同様の機能性を持つ複数の解決法によって特徴付けられている。
 ― 適応が限られていることは死を意味する。臓器の手の込んだ特殊化は、必要なく発達した芸術のための芸術にしか過ぎないことがしばしばである。
 ― 有機的な仕掛けが有用なのが有害なのかどうか、それがどの段階までなのかを知ることは、例外を除いて不可能である。
 ― 複雑な仕掛けが存在するあらゆるところで、機能的に劣ることがないように見えるより単純なものをしばしばすぐそばに見つけることができる。
 ― 進化は無限に異なり得る手段ではなく、達成すべき目的に興味がある (例:翼と飛行)。
 ― 新ダーウィン主義は、敬虔な精神しか満足させることができないトートロジーの集合に過ぎない。
 ― 環境はほとんどどんなものでも認め、大したことをしない。非常に極端な稀な例においてのみ選択の力を発揮する。
 ― 非常に異なった生物において、心理現象の一段上の状態がすべての連絡網を可能にし、その頂点に到達する。
 ― この過程の一般的なやり方は、すべての動植物において方向は定まらないが両者を結び付ける意志に似ている(例えば、蘭とそれを受粉するスズメバチ)。この目的論に注釈を加えるべきではないが、どのようにこの方向の定まらない意志が働いているのかを探るべきである。実験が可能である」

ショーヴァンは、ダーウィン主義により適応の頂点として提示される非常に複雑な解決法が近縁の生物では同様の機能を果たす非常に単純な解決法と「競争させられる」原則をほぼ法則のように仕立てあげる。他方、彼は自然選択が明らかに環境にうまく適応していない動物を排除しないことを指摘し、自然選択に全能性を与えるダーウィン主義の説明に一貫性がないことを主張する。ショーヴァンは明らかな目的論者であり、「合目的性は生物学者が公衆の面前では一緒にいるところを見られたくないが、それなしには済ますことができない女性である!」と言ったピエール・ポール・グラッセを批判する稀な生物学者の一人でもある。

彼にとっての進化は、内にあって進行するプログラムに対応している。しかし、それは単純な論点先取の不当性には当たらない。第一に、彼はそのようなプログラムの存在を明らかにできる実験を提案している(これについては第12章でも触れる)。第二に、彼の目的論は、自然の観察、進化は「後ろに戻ることがない」という事実、その根本にある傾向が昆虫、鳥、蛸、哺乳類における心理現象の広がりと同じく、あたかも何かが自らの実現を願うように表れるという事実から出発している。彼はダーウィン主義はトートロジーである(適者生存と言うが、誰が適者なのか?それは生き残った者であるという論理)とするトム・べテルがアメリカで発展させた考えを再び取り入れるのである。





lundi 8 mars 2010

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (11)

2. 自己組織化

(photo source: Transition Towns WIKI)


ブライアン・グッドウィン(放送大学生物学教授)はスチュアート・カウフマン以上により複雑な構造の出現は生命の創発の性質に因るだろうと考えている。「1859年以来、自然選択と適者生存のメカニズムが地上の生命を説明する唯一の命題であるとされてきた。その起源、絶滅、適応はすべてダーウィン主義の視点から研究されてきた。しかし、種の起源や多様性を説明する他のやり方は存在する。ニュートン的世界の見方が20世紀のアインシュタインによる革命まで支配的であったように、ダーウィン主義は複雑性は生命に内在する創発の性質で、必ずしも偶然による変異と自然選択の結果ではないことを認める新しい理論に置き換わるはずである。生物は競い合うと同程度に協調し合い、利己的であると同程度に利他的で、破壊的で反復的であると同程度に創造的で遊びを好む」

ブライアン・グッドウィン自身はダーウィン以前の理性的な形態学者やダーシー・トンプソンについて触れ、さらにゲーテの復権とより質的を重んじる科学の発展を願うとまで言っている。


(photo source: Antropología, genética y cultura)


メー・ワン・ホー(放送大学生物学講師)も自己組織化の多くの支持者だけではなくマイケル・デントンと同じように、すべての還元主義的方法では捉えきれないものとして生命を見ている。「生命は全体が組織される過程である。生命は過程であり、ものでも物質の性質でも構造でもない。このように生命は生物が生き、成長し、発育し、進化するように物質とエネルギーがダイナミックに流れる中にあるはずである。したがって、『全体』とは分離されたモナドのような実体ではないことがわかる。それは自己構築と自己組織化される環境に開かれたシステムであり、外の環境に開かれ、その潜在能力が高度に再生可能な安定した形態の中に取り込まれることにより可能になる」

ここで最も重要な言葉のひとつが創発である。複雑な形態は、それが潜在的、仮想的なものであれ前もって存在するものは何一つない。複雑な形態は生命の過程から創発する。なぜなら、この創発を可能にする過程は自然そのものの中にあるからである。メー・ワン・ホーとブライアン・グッドウィンは明らかにスチュアート・カウフマンよりダーウィン主義から離れたところにいる。彼らはダーウィン主義のメカニズムが進化において主要な役割を担っていないと考えている。より複雑な形態は、選択ではなく自己組織化により自然の中に創発するのである。

哲学的レベルにおいて、自己組織化の支持者は少なくともヨーロッパでは汎神論かアニミズムに関連すると見られている。それは、この学派の科学者の大部分が汎神論的な考え方(あるいは、フランシスコ・ヴァレラのような仏教の考え方)を持っているからであり、創発の概念はアリストテレスにより与えられた意味における 「第一の動力」 や初めて創り出すためのすべて外在性を必要としなくなるからである。しかし、何人かの神学者や哲学者(ニールス・グレゲルセンやフィリップ・クレイトンなど)は、特にホワイトヘッドに触発されたプロセス神学に依拠して、創発や自己組織間についてのキリスト教的概念を展開しようとし、またこの領域における複数の考え方の存在を主張するために、テレンス・ディーコンのような汎神論の自己組織化の支持者と戦っているのは注目に値する。21世紀に自己組織化が重要なパラダイムとして避けられないことを考えると、二つの概念が近づくことには問題がありそうだが、そこにキリスト教が不在であることを彼らは望んでいない。


dimanche 7 mars 2010

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (10)

強い非ダーウィン主義者:偶然と自然選択を超えて

1.進化の反復性


(photo source: Harun Yahya)


マイケル・デントン(ニュージーランド、オタゴ大学教授の生化学者、遺伝学者で、目の遺伝学の専門家)は、クリスチャン・ド・デューブよりさらに遠くに行っているコンウェイ・モリスよりもさらに遠くへ行こうとする。彼のものの見方は、生物学的形態は任意のものではなく、複雑な数学的形を取り入れていると説明するダーシー・トンプソン(後述)と同様の考え方から出発する。蛋白の形は物理学により与えられたものであるという命題を示す「プラトン主義の形態としての蛋白の折りたたみ:自然の法則による進化の前ダーウィン主義の概念への新しい支持」という暗示的なタイトルの論文で、それが正しいことを明らかにする。蛋白はそれ自身で折りたたまれる。理論的には、非常に多くの異なったやり方で折りたたまれ得るが、実際には、蛋白には1000を少し超えた基本形しか存在しない。したがって、雪の結晶が常に6角形を取るように、「蛋白の中に隠れた形」が存在する。そこからデントンは、蛋白を超えて細胞でも、生物においても同様であると提唱することになる。このような元型となる形の存在は、自然の法則により導かれた進化の理解へとわれわれを導く。

「例えば、紡錘体の構造やラッパムシのような繊毛原生生物の細胞形のような細胞質の形にローバストネスがあることは、おそらくこれらの形もまた物理学の法則で決定される例外的に安定でエネルギー面でも有利な構造であることを示唆している。もし非常に多くのより優れた生物の形態が普通であることが明らかになれば、その意味するところは決定的で、大きな影響力を持つだろう。それは、物理学の法則が生物の形態の進化において、一般に考えられている以上に重要な役割を担っていたことを意味している。そして、それはまたダーウィン主義以前の考え方への回帰を意味することになる。その考え方によると、生物のすべての多様性を土台とした自然な形態の最終的な集合は、炭素を基礎に置く生命のある宇宙の至るところで常に再現される」。考慮すべきは、コンウェイ・モリスもこのような結論を主張していることである。

「ダーウィン主義以前の考え方への回帰」 と言うが、デントンは非ダーウィン主義については語りたがらず、エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールのような「合理的形態学者」の考え方のような進化論の概念について語る。それは、生命のすべての多様性の背後には、ある型の統一性を確保する基本的な要素があるとするものである(例えば、違いがあるにもかかわらず、地上の脊椎動物の足はひとつの共通の原則に従っている。この派の科学者は、脊椎動物が共通祖先に由来するという事実だけでこの統一性は説明できないと考える。臓器の形は合理的な基準に従うのであり、遺伝の法則だけに従うものではない)。

デントンの主著「進化に意味はあるか?」は、ブリッジウォーターの論文(当時の最も卓越した人により1830年に編纂された8つの著作)、生命と環境の完全な適合を書いたローレンス・ヘンダーソンの論文、あるいはもし時計に出会ったならば、そこに時計職人の存在を認めないわけにはいかないとするウィリアム・ぺイリーの有名な論文などのイギリスの「自然神学」の優れた伝統に属する。フランスでは「自然神学」は害を被っている。それは、「自然神学」があくまでも最後に神学的な結論を引き出すために現実の観察から出発することを知らない人たちが、「自然神学」は科学ではなく神学の本であるので読むに値しないと考えたためである。

その解釈は全く不正確である。この本に見られる神学的ないくつかの結論を除くと、純粋に科学的な500ページの中に次のことが示されている。

― 炭素は複雑系を仕上げるための考えられる最良の原子である。
― 水は炭素に基づく生命に考えられる最良の適応をした液体である。
― 重炭酸塩は炭素に基づく生命の考えられる最良の緩衝である。
― 大気のみならず水を通過できる太陽光スペクトルの領域だけは生命にとって最も有用である。など。

「目的論の命題の力の源泉は、自らに都合のよい議論を集めることである。その命題はひとつの証拠に基づくのではない。これらすべての証拠の追加、生命の非常に特殊な目的に向けて説得力をもって導く偶然の長い繋がり、そして独立したこれらすべての証拠が目的論の素晴らしい全体性を示すためにお互いに収まりをつけるという事実に基づいている。進化の領域では、命題は証拠の追加の中からも引き出される。一つひとつを取り上げると、これらの証拠はひとつの可能性を示すに過ぎない。しかし、全体として考えると、それが導かれた進化という概念を強く支持する全的なイメージを与えるのだ」

デントンは彼の誹謗者の主張をよく知っている。それは、もし宇宙がわれわれの存在に適応していないとすれば、われわれはここにいないことになるので、宇宙がひとつの計画に従った印象を与える必要があるというものである。しかし、もし自然の目的論的概念を主張することができるのであれば、「それは宇宙がある点において生命に適応するのではなく、最も適した状態で適応することを認めながらになる」。

この導かれた進化の仮説は間違いなく科学的で、全く宗教的、哲学的ではない(デントンに反対する者は一般的にこの点を忘れている)。なぜなら、それはポッパーの反証可能性を持っているからである。この説に反証するためには、「炭素に基づく生命にとって水と同程度に代替できる液体、二重らせんより性能のよい遺伝情報の保存媒体を作る方法、酸化に勝る生化学的過程、そして蛋白質、脂質二重膜、細胞系、重炭酸塩、リン酸塩などよりも性能のよい構造」を見つければよいだけのである。

デントンが理論的な結論を引き出すのはそれらすべての後のことである。「神が人間の形を創ったことを前提とする受肉という教義により、キリスト教ほど宇宙における人間の絶対的中心性や特異性に依存している宗教はない。中世キリスト教の人間中心的な見方は、人間が作り出した最も奇妙な考え方だろう。それは根本的で決定的に思いあがった理論である。厚かましさにおいてこの理論に匹敵するものはない。なぜなら、すべてが人間の存在と関係があるからである。・・・科学革命がアリストテレスを追放し、目的論的思弁を時代遅れのものにし、この考え方を破壊したかに見える4世紀後、絶え間なく続く発見の流れは目的論に見事に回帰した。4世紀の間無神論と強く結びついていたかに見える科学は、2千年紀の終わりについにニュートンや彼の多くの初期の支持者が切に望んでいたもの、すなわち人間中心主義的信仰の擁護者になったのである」

このように「コペルニクスの亡霊」を祓うことができる。人間は地理学的には最早宇宙の中心にはいないが、より微妙なやり方で宇宙の進化の最終点として中心的な位置を取り戻している。これらの文章を読んだ人には驚きに見えるだろうが、デントンはキリスト教信者ではない。彼がしていることは、自然の化学的、生化学的性質の中に見る一連の偶然の一致がキリスト教神学の中心的な論点を支持していることを認めさせるだけなのである。

彼の現在の仕事は、生気論と生物は機械と根本的に異なることの証明を復権することである。

「生物の領域における還元主義の完全な失敗と新しい形を作り出す試みの完全な失敗は、機械の領域と対照的である。飛行機やタイプライターの特徴や全体の動きは、構成要素の完全な分析を「下から」することにより非常に正確に予見できる。それは機械の構成要素が複雑な相互作用やフィードバックを組み込まなかったからである。・・・反対に、有機的なシステムは本質的には全体から部分に向かうトップ・ダウンが実体である。有機的な形態は部分を超えた全体性であり、そのものに特有で、しかも全体の機能においてのみ現れる秩序を持っている。・・・有機的な集合は独立した分子からひとつずつ積み上げて組み立てることはできない。なぜならその部分は全体の中にしか存在しないからである」

考慮すべき興味深い点は、生物は機械と類似すると考えるダーウィン主義やインテリジェント・デザインを彼が同時に反駁していることである。


mercredi 3 mars 2010

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (9)

(photo source: Steve Paulson's article)


スチュアート・カウフマン(サンタフェ研究所の生物学者で数学者)は、自己組織化を唱える別の学派に属する。彼を見ると、進化そのものの漸進主義(これは次の章で見るように、私には守ることができないように思われるが)ではなく、進化に関する立場における漸進主義の存在が齎す問題が明らかになってくる。彼が弱い非ダーウィン主義者なのか、非常に弱いダーウィン主義者なのかはっきり言うことができないのだ。しかし、彼の立場には根本的にダーウィン主義から離れている側面がある。

「ダーウィン以来、われわれは自然選択というひとつの力に向かった。・・・それなしには、一貫性のない無秩序以外の何ものでもないものしかない存在しないとわれわれは考える。私はこの本で、その考えが間違いであることを論証したい。これから見るように、秩序は偶然の出来事ではなく、自然発生的秩序という大きな『鉱脈』が存在することを複雑性と創発の科学が示唆している。・・・この自然発生的秩序の広がりは、われわれが考えていたよりもはるかに大きい。・・・自然発生的秩序の存在は、ダーウィン以来生物学において確立された概念に対する素晴らしい挑戦である。・・・もしそれが正しいとすると、どのようなダーウィン的世界観の改訂が待ち受けているのだろうか。われわれは偶然の出来事ではない。予期されていたのだ。しかし、ダーウィン主義の概念の改訂は容易ではないだろう。生物学者は選択と自己組織化を結びつける進化の過程を研究するための概念的枠組みを何も持っていないのである。どのようにして自然発生的秩序をすでに持っているシステムに対して選択が働くのだろうか」

「われわれは予期されていた」という表現は、間違ってはいけない。カウフマンは目的論者ではなく、コンウェイ・モリスとは異なり、条件が多少とも同じであったとしても進化は繰り返すことはないと考えている。彼の言いたいことは、自然の法則が、偶然の変異以外のすべての自然の『基礎となる物質』を自然選択に与える、複雑な秩序の階層を自然発生的に出現させるということである。これらの秩序は自然の法則に根を張っているので、われわれが「宇宙の中のわが家」にいることを新たに感じることができ、彼によるとダーウィン主義は世界からすべての意味を取り除いた。「楽園は罪によってではなく科学によって失われた」のである。


lundi 1 mars 2010

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (8)

(Photo: Dudley Simons)

サイモン・コンウェイ・モリス(ケンブリッジ大学教授)は、現在最も重要な古生物学者の一人である。彼もまた自然の中で作用しているのはダーウィン主義のメカニズム以外にないと考えており、自らをダーウィン主義者と見做している。しかし、彼はこう主張する。 「本書の主な目的は、進化に影響を与える拘束と多くの『収斂』の現象の存在により、われわれのようなものの出現がほとんど必然であることを示すことである」。コンウェイ・モリスの言う収斂は、進化の中で多くの経路がほとんど同じ結果に至る事実のことである。もし鮫、イルカ、プレシオサウルスのような海竜が同じ形をしている(泳げるように形を整える方がよいのだ)のが当然だとすると、共通祖先が目を持っていないにもかかわらず、蛸と人間が網膜の方向を除き類似の構造の目を持っていることや、オーストラリアのある種の有袋類が有胎盤哺乳類の中で対応するものと全く同じ頭蓋を持っている理由を説明できない。

「収斂」の例を増やすことにより、コンウェイ・モリスはダーウィン主義者の主張とは異なり、生物学的に可能なすべての形の総数は限られていること、そしてこの限界が進化に対し非常に厳しい拘束を強いることを示そうとする。「現在のコンセンサスは、それぞれの種は偶然による過程の結果であること、そして非常に多くの可能性があり、それはおそらく銀河系で居住可能な惑星の数よりずっと多いことである。このような考え方によると、ある惑星の住人が他の衛星の住人と似ていることはあり得ないだろう。進化論の収斂という現象は逆に選択の余地が厳密に限られていることを意味する。・・・もしそれが正しいとすれば、進化が特定の機能的な解決に向けて『操縦』するやり方は、生物学のより一般的な理論の基礎を提供する可能性がある。このアプローチは進化の軌跡を安定した機能的な形態に導く『引力』にも似たものの存在を前提としている」。

そして彼は私は重要な点だと考えている点を主張するところまで行く。「私は、このような研究プログラムが生物学の最も深いレベルを明らかにすると考えている。そこではダーウィン主義による進化が中心的な概念であり続けるが、可能な限りの機能的形態はビックバン以来前もって決定されている」。

ビッグバン以来、可能性のある形として機能的形態が前もって存在すること、生物学における新たな理論の必要性、進化を導く引力のようなものの存在、人間に似たものの必然的な出現。これほど新ダーウィン主義から離れた考え方を現代の最も重要な古生物者の一人が擁護しているのを見るのは異様である(何という皮肉か、彼の仕事はグールドの著作「ワンダフル・ライフ」で褒められている)。しかも彼は自らをダーウィン主義者と名乗っているとは。このことはイデオロギーがこの分野にどのような影響を与えているのかをよく物語っている。自らを新ダーウィン主義と主張しなければならない。そして、考えがどうであれ、そうしなければ社会学的にも科学的にも死んでしまうのである・・・。

ここでコンウェイ・モリスは、惑星は常に太陽の周りを回っているが、地球は依然世界の中心にあるというモデルを打ち立てたティコ・ブラーエと同じ状況にいる。コペルニクスやガリレオとは異なり、ティコ・ブラーエのシステムは決して有罪宣告を受けることはなかった。その普及により、確かに多くの精神が開かれ、宇宙に関するわれわれの考え方は発展することになった。それで、今日、進化におけるティコ・ブラーエの役を・・・ガリレオの到着を待ちながら演じているかもしれないコンウェイ・モリスの思想が重要になるのである!