samedi 23 octobre 2010

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (15)

ジャン・シャリーヌは、生物の発生、特に生物の遺伝と胎発生に古生物学を結び付ける「エボ・デボ(進化発生学)」と呼ばれる新しい領域に興味を持つ古生物学者である。この領域は、特にエドワード・B・ルイスにより発見され、その役割がウォルター・ゲーリングとデニス・デュブールにより解明された制御遺伝子(ホメオティック遺伝子と呼ばれる)に基づいている。このような遺伝子は生物の構築を制御している。したがって、ショウジョウバエのアンテナぺディア遺伝子の変異により触覚の場所に脚が形成され、他の変異では4つの翅を持つハエができる。

さらに、ショウジョウバエの目の形成を制御する遺伝子(eyeless)はマウスにも存在する。マウス由来のeyeless遺伝をショウジョウバエのゲノムに導入すると、ショウジョウバエの目が形成されるのである。シャリーヌは新たに見つかったこのようなメカニズムに基づいて全体的には漸進的でない進化の見方を発展させ、自然選択の作用の下に飛躍と漸進的進化の共存があることを示している。古典的な「働き手」と呼ばれる遺伝子がミクロ進化の原因になる(これらの遺伝子の変異は構造的にはそれほど大きな影響を及ぼさない)のに対し、マクロ進化は制御遺伝子の変異に由来するとシャリーヌは考えている。彼によれば、このような新しい方法により前述のリチャード・ゴールドシュミットの概念と後述するピエール・ポール・グラッセの概念の一部が復権されることになる。

しかし、彼の最も独創性のある仕事は相対性理論とフラクタルの専門家で新たな相対性理論の提唱者でもある宇宙物理学者ローラン・ノッタルと経済学者のピエール・グルーと共同で、進化にフラクタルの構造が存在することを明らかにするためにこの新しい理論を進化に応用しようとしたことである。彼らの共著の本(「進化のサイクル」)やフランス科学アカデミー紀要に発表した論文(「生命の樹はフラクタル構造を持つか」)では、生命の進化だけではなく宇宙や人間社会の進化をも支配しているように見える生命臨界システム(life-critical system)の進化の法則(対数周期 log-periodic の法則)を用いている。


dimanche 16 mai 2010

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (14)

ロジーヌ・チャンドボアは、生物の発生はDNAにコードされていないと考えている。彼女は発生学者として、設計者は卵子の細胞質で、DNAは彼女の喩えによると木やコンクリートなどの建築に使われる材料を決めているに過ぎないことを示す実験を指摘した。

これらの概念は分子生物学の全能性に逆らう戦いと言えるもので、アンドラス・パルディ(Andras Paldi)のような若手研究者の研究にその確証を見ることになった。彼はこう言っている。「次の遺伝学の革命で問題になるのは、生物の生化学的反応の途轍もない複雑さに占めるDNAの場所を新たに与えることである。生命の進行を支配する独裁者としてDNAをあがめ奉ることは最早ないだろう。・・・私は遺伝学の発展の最後の段階に来ていると信じている。それは20世紀初頭に始まり、全能の遺伝子という主要な概念により特徴づけられる。その概念によれば、遺伝子は生物の発生に必要にして十分な情報を持っているとされるが、この説明の図式では観察される遺伝現象を次第に説明できなくなっていると皆気付いている」。同時に彼は「導かれた」偶然についても語っている。

ロジーヌ・チャンドボアにとっての進化とは、原始細胞から複雑な生物に至る胎発生のイメージに沿うように始めから展開されるプログラムである。「発生の遺伝プログラムは生物学者全体の想像の中にだけ存在する。・・・彼らのすべての研究は同じ結論に至る。すなわち、発生のプログラムはDNAに書かれていない、というものだ。それは卵子の細胞質に含まれており、特定の分子組成と適切な構造を持たなければならない。換言すれば、DNAは何ものにも指令を出すことはないし、もちろん設計者ではない。しかし、構造のための材料を作るので、生物に独創性を与える。・・・生命の樹は、木がもっぱら内的因子を介して、種子から作られるのと同じように原始細胞から作られた」。

彼女はこの点でマイケル・デントンとレミー・ショーヴァンと似ているように見える。しかし、違いがあるのは、彼女が進化に内在するプログラムは卵子の細胞質に作用する内的因子によると考えている事実である。もちろん、これらの考えは極端であるが、遺伝子よりはエピジェネティックの役割を強調する現在の傾向は、これが非論理的だとは言えないことを示している。


samedi 15 mai 2010

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (13)

(photo source: Biological Evolution)

アン・ダンブリクール・マラッセ(国立自然史博物館前史部門CNRS研究員)の研究は、一般的な進化のメカニズムと同様に霊長目の進化の間で起こる過程の性質についての重要な議論をフランス国内で巻き起こした。彼女の仕事は二つの発見と一つの理論に分けられる。最初の発見は、頭蓋基底部の屈曲が神経管が巻かれることと関係すること(図10.5参照)、そして最初のヒト科で起こった直立化の程度は、信じられているような二足歩行に喚起されたものではなく、神経管の巻かれ方の増強によることを示したことである。


図10.5 二足歩行の新たな理解
神経管の屈曲が 「頭蓋顔面収縮」を引き起こし、体を直立にする


神経管が胎生初期に巻かれれば巻かれるほど、屈曲が益々重要になる。この過程は頭蓋基底部と連絡する組織に反映される。これらの緊張は、われわれのすべてが顎の結合に小さな空隙を出現させており、現在のどのサルにも見られない。それはアウストラロピテクスから出現するもので、それ以前にはない。

これは各自が確認できる客観的な事実であり、首をより垂直に伸ばし顎骨を後退させたヒト科の出現の理解にとって極めて重要になるものである(われわれが反復により成人になると額の下の位置に歯を持つ唯一の霊長類であるのは、頭蓋底部の収縮と顔面の後退という現象による)。

もし第一の発見がわれわれの姿勢と垂直性が胎児期に由来することであれば、第二は化石に関するものである。人間の祖先の頭蓋を3次元で計測すると、現在及び化石の霊長類は自動的に6つのグループに分けられ(図10.6参照)、それぞれは胎児期の収縮のひとつの安定期に対応している。


図10.6 われわれに至る6段階
生命の進化における方向性と非漸進性

成長の程度、角度、軌道をもとにしたこれらの発見から、アン・ダンブリクール・マラッセは人間に導いた形態学的進化の数学理論を書こうとする。この進化は反復する連続的傾向を示すが、その効果には非連続性がある。胎生期の収縮の一つの安定期から中間的な時期を経ずに新たな安定期へ移行し、それぞれの安定期は「基本的個体発生」と呼ばれるものに対応している。

原型という概念に近い「型紙」、「パターン」についても語られる。型紙はある限界を超えない範囲で変化できる(丁度、セダン型自動車が基本型を保ったままクーペにもステーションワゴンにもなるように)。そして、この型紙の内部における進化は漸進的で、ダーウィン主義的で、偶然による。逆に、そして厳密なパラダイムとは対照的に、これは類人猿とアウストラロピクテスの間で見られる進化の形ではなく、以前の組織図の改定による新たな胚発生の出現なのである。

この過程の記載を可能にする角度の変化を数値に置換すると、角度は常に同じ方向に進化することがわかる。すなわち、より重要な神経管の巻き込みと常により顕著な中枢神経系の複雑化を伴った「顔面・頭蓋の収縮」で、体は益々垂直になり、その均衡が益々複雑になる。

6000万年の距離を置いてみると、内部に由来し、遺伝によって伝達される頭蓋の内側から読み取れるする一つの過程が浮き上がってくるのがわかる。もし環境のおびただしい変化が種に働くとしても、この基本的な内部の過程を変えることは絶対にない。アン・ダンブリクールの貢献は、進化において作用している必要不可欠な過程は自然選択とは関係ないことを示したことである。この進化は指数関数的に加速しながら進むことになる。新しい個体発生の出現は、そこから派生するものが出現するのに要する時間より短くなる。

アン・ダンブリクールは内的性質を感知する内的論理(彼女は量子由来であると考えている)が存在すると結論する。それは唯一の作用主体が環境により齎され、変異した遺伝子に作用する自然選択である新ダーウィン主義のモデルでは説明できない。これが彼女が大進化(ある型から別の型への移行を可能にする)と小進化(ある型の中で起こる多様な適応)を常に区別してきた多くの科学者に加わる理由である。

このような統合することにより遺伝学を超える発見と知識から組み立てられた理論は、新ダーウィン主義の3つの基本的な主張に反対の立場を取る。第一に、進化とは予測不能な現象に従うもので、「記憶」はなく、以前に起こすことができた進化に影響されることはないこと、第二に、進化の過程で解剖学的変化を選択するのは基本的に環境の変化であること、そして最後に、これらの変化は漸進的であるという3つの考えに反対する。

しかし、新ダーウィン主義の不完全さを示しながら、このアプローチは、敢えて言うならば、進化が実際に起こっているところを見ることができる最良の証拠になっている。

dimanche 14 mars 2010

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (12)

3. 内的論理

(photo source: Réflexions sur trois points)


レミー・ショーヴァン(ソルボンヌ大学名誉教授)は動物行動学者である。社会性昆虫のフランスにおける最高の専門家の一人である。ジョン・ピヴェトーのような重要な古生物学者やピエール・ポール・グラッセのような主要な動物学者により守られてきたフランスの伝統に従い、彼はダーウィン主義と自然選択の全能性に対して批判的であり、動物行動の専門家としては、特に社会生物学に批判的である。

ここに彼特有の挑発的なスタイルで書かれたショーヴァンの考え方をまとめてみたい。

「― 生命は、安全のための膨大な余力、非常に幅広い環境の変化に対する著しい適応性、そして同じ問題に対して同様の機能性を持つ複数の解決法によって特徴付けられている。
 ― 適応が限られていることは死を意味する。臓器の手の込んだ特殊化は、必要なく発達した芸術のための芸術にしか過ぎないことがしばしばである。
 ― 有機的な仕掛けが有用なのが有害なのかどうか、それがどの段階までなのかを知ることは、例外を除いて不可能である。
 ― 複雑な仕掛けが存在するあらゆるところで、機能的に劣ることがないように見えるより単純なものをしばしばすぐそばに見つけることができる。
 ― 進化は無限に異なり得る手段ではなく、達成すべき目的に興味がある (例:翼と飛行)。
 ― 新ダーウィン主義は、敬虔な精神しか満足させることができないトートロジーの集合に過ぎない。
 ― 環境はほとんどどんなものでも認め、大したことをしない。非常に極端な稀な例においてのみ選択の力を発揮する。
 ― 非常に異なった生物において、心理現象の一段上の状態がすべての連絡網を可能にし、その頂点に到達する。
 ― この過程の一般的なやり方は、すべての動植物において方向は定まらないが両者を結び付ける意志に似ている(例えば、蘭とそれを受粉するスズメバチ)。この目的論に注釈を加えるべきではないが、どのようにこの方向の定まらない意志が働いているのかを探るべきである。実験が可能である」

ショーヴァンは、ダーウィン主義により適応の頂点として提示される非常に複雑な解決法が近縁の生物では同様の機能を果たす非常に単純な解決法と「競争させられる」原則をほぼ法則のように仕立てあげる。他方、彼は自然選択が明らかに環境にうまく適応していない動物を排除しないことを指摘し、自然選択に全能性を与えるダーウィン主義の説明に一貫性がないことを主張する。ショーヴァンは明らかな目的論者であり、「合目的性は生物学者が公衆の面前では一緒にいるところを見られたくないが、それなしには済ますことができない女性である!」と言ったピエール・ポール・グラッセを批判する稀な生物学者の一人でもある。

彼にとっての進化は、内にあって進行するプログラムに対応している。しかし、それは単純な論点先取の不当性には当たらない。第一に、彼はそのようなプログラムの存在を明らかにできる実験を提案している(これについては第12章でも触れる)。第二に、彼の目的論は、自然の観察、進化は「後ろに戻ることがない」という事実、その根本にある傾向が昆虫、鳥、蛸、哺乳類における心理現象の広がりと同じく、あたかも何かが自らの実現を願うように表れるという事実から出発している。彼はダーウィン主義はトートロジーである(適者生存と言うが、誰が適者なのか?それは生き残った者であるという論理)とするトム・べテルがアメリカで発展させた考えを再び取り入れるのである。





lundi 8 mars 2010

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (11)

2. 自己組織化

(photo source: Transition Towns WIKI)


ブライアン・グッドウィン(放送大学生物学教授)はスチュアート・カウフマン以上により複雑な構造の出現は生命の創発の性質に因るだろうと考えている。「1859年以来、自然選択と適者生存のメカニズムが地上の生命を説明する唯一の命題であるとされてきた。その起源、絶滅、適応はすべてダーウィン主義の視点から研究されてきた。しかし、種の起源や多様性を説明する他のやり方は存在する。ニュートン的世界の見方が20世紀のアインシュタインによる革命まで支配的であったように、ダーウィン主義は複雑性は生命に内在する創発の性質で、必ずしも偶然による変異と自然選択の結果ではないことを認める新しい理論に置き換わるはずである。生物は競い合うと同程度に協調し合い、利己的であると同程度に利他的で、破壊的で反復的であると同程度に創造的で遊びを好む」

ブライアン・グッドウィン自身はダーウィン以前の理性的な形態学者やダーシー・トンプソンについて触れ、さらにゲーテの復権とより質的を重んじる科学の発展を願うとまで言っている。


(photo source: Antropología, genética y cultura)


メー・ワン・ホー(放送大学生物学講師)も自己組織化の多くの支持者だけではなくマイケル・デントンと同じように、すべての還元主義的方法では捉えきれないものとして生命を見ている。「生命は全体が組織される過程である。生命は過程であり、ものでも物質の性質でも構造でもない。このように生命は生物が生き、成長し、発育し、進化するように物質とエネルギーがダイナミックに流れる中にあるはずである。したがって、『全体』とは分離されたモナドのような実体ではないことがわかる。それは自己構築と自己組織化される環境に開かれたシステムであり、外の環境に開かれ、その潜在能力が高度に再生可能な安定した形態の中に取り込まれることにより可能になる」

ここで最も重要な言葉のひとつが創発である。複雑な形態は、それが潜在的、仮想的なものであれ前もって存在するものは何一つない。複雑な形態は生命の過程から創発する。なぜなら、この創発を可能にする過程は自然そのものの中にあるからである。メー・ワン・ホーとブライアン・グッドウィンは明らかにスチュアート・カウフマンよりダーウィン主義から離れたところにいる。彼らはダーウィン主義のメカニズムが進化において主要な役割を担っていないと考えている。より複雑な形態は、選択ではなく自己組織化により自然の中に創発するのである。

哲学的レベルにおいて、自己組織化の支持者は少なくともヨーロッパでは汎神論かアニミズムに関連すると見られている。それは、この学派の科学者の大部分が汎神論的な考え方(あるいは、フランシスコ・ヴァレラのような仏教の考え方)を持っているからであり、創発の概念はアリストテレスにより与えられた意味における 「第一の動力」 や初めて創り出すためのすべて外在性を必要としなくなるからである。しかし、何人かの神学者や哲学者(ニールス・グレゲルセンやフィリップ・クレイトンなど)は、特にホワイトヘッドに触発されたプロセス神学に依拠して、創発や自己組織間についてのキリスト教的概念を展開しようとし、またこの領域における複数の考え方の存在を主張するために、テレンス・ディーコンのような汎神論の自己組織化の支持者と戦っているのは注目に値する。21世紀に自己組織化が重要なパラダイムとして避けられないことを考えると、二つの概念が近づくことには問題がありそうだが、そこにキリスト教が不在であることを彼らは望んでいない。


dimanche 7 mars 2010

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (10)

強い非ダーウィン主義者:偶然と自然選択を超えて

1.進化の反復性


(photo source: Harun Yahya)


マイケル・デントン(ニュージーランド、オタゴ大学教授の生化学者、遺伝学者で、目の遺伝学の専門家)は、クリスチャン・ド・デューブよりさらに遠くに行っているコンウェイ・モリスよりもさらに遠くへ行こうとする。彼のものの見方は、生物学的形態は任意のものではなく、複雑な数学的形を取り入れていると説明するダーシー・トンプソン(後述)と同様の考え方から出発する。蛋白の形は物理学により与えられたものであるという命題を示す「プラトン主義の形態としての蛋白の折りたたみ:自然の法則による進化の前ダーウィン主義の概念への新しい支持」という暗示的なタイトルの論文で、それが正しいことを明らかにする。蛋白はそれ自身で折りたたまれる。理論的には、非常に多くの異なったやり方で折りたたまれ得るが、実際には、蛋白には1000を少し超えた基本形しか存在しない。したがって、雪の結晶が常に6角形を取るように、「蛋白の中に隠れた形」が存在する。そこからデントンは、蛋白を超えて細胞でも、生物においても同様であると提唱することになる。このような元型となる形の存在は、自然の法則により導かれた進化の理解へとわれわれを導く。

「例えば、紡錘体の構造やラッパムシのような繊毛原生生物の細胞形のような細胞質の形にローバストネスがあることは、おそらくこれらの形もまた物理学の法則で決定される例外的に安定でエネルギー面でも有利な構造であることを示唆している。もし非常に多くのより優れた生物の形態が普通であることが明らかになれば、その意味するところは決定的で、大きな影響力を持つだろう。それは、物理学の法則が生物の形態の進化において、一般に考えられている以上に重要な役割を担っていたことを意味している。そして、それはまたダーウィン主義以前の考え方への回帰を意味することになる。その考え方によると、生物のすべての多様性を土台とした自然な形態の最終的な集合は、炭素を基礎に置く生命のある宇宙の至るところで常に再現される」。考慮すべきは、コンウェイ・モリスもこのような結論を主張していることである。

「ダーウィン主義以前の考え方への回帰」 と言うが、デントンは非ダーウィン主義については語りたがらず、エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールのような「合理的形態学者」の考え方のような進化論の概念について語る。それは、生命のすべての多様性の背後には、ある型の統一性を確保する基本的な要素があるとするものである(例えば、違いがあるにもかかわらず、地上の脊椎動物の足はひとつの共通の原則に従っている。この派の科学者は、脊椎動物が共通祖先に由来するという事実だけでこの統一性は説明できないと考える。臓器の形は合理的な基準に従うのであり、遺伝の法則だけに従うものではない)。

デントンの主著「進化に意味はあるか?」は、ブリッジウォーターの論文(当時の最も卓越した人により1830年に編纂された8つの著作)、生命と環境の完全な適合を書いたローレンス・ヘンダーソンの論文、あるいはもし時計に出会ったならば、そこに時計職人の存在を認めないわけにはいかないとするウィリアム・ぺイリーの有名な論文などのイギリスの「自然神学」の優れた伝統に属する。フランスでは「自然神学」は害を被っている。それは、「自然神学」があくまでも最後に神学的な結論を引き出すために現実の観察から出発することを知らない人たちが、「自然神学」は科学ではなく神学の本であるので読むに値しないと考えたためである。

その解釈は全く不正確である。この本に見られる神学的ないくつかの結論を除くと、純粋に科学的な500ページの中に次のことが示されている。

― 炭素は複雑系を仕上げるための考えられる最良の原子である。
― 水は炭素に基づく生命に考えられる最良の適応をした液体である。
― 重炭酸塩は炭素に基づく生命の考えられる最良の緩衝である。
― 大気のみならず水を通過できる太陽光スペクトルの領域だけは生命にとって最も有用である。など。

「目的論の命題の力の源泉は、自らに都合のよい議論を集めることである。その命題はひとつの証拠に基づくのではない。これらすべての証拠の追加、生命の非常に特殊な目的に向けて説得力をもって導く偶然の長い繋がり、そして独立したこれらすべての証拠が目的論の素晴らしい全体性を示すためにお互いに収まりをつけるという事実に基づいている。進化の領域では、命題は証拠の追加の中からも引き出される。一つひとつを取り上げると、これらの証拠はひとつの可能性を示すに過ぎない。しかし、全体として考えると、それが導かれた進化という概念を強く支持する全的なイメージを与えるのだ」

デントンは彼の誹謗者の主張をよく知っている。それは、もし宇宙がわれわれの存在に適応していないとすれば、われわれはここにいないことになるので、宇宙がひとつの計画に従った印象を与える必要があるというものである。しかし、もし自然の目的論的概念を主張することができるのであれば、「それは宇宙がある点において生命に適応するのではなく、最も適した状態で適応することを認めながらになる」。

この導かれた進化の仮説は間違いなく科学的で、全く宗教的、哲学的ではない(デントンに反対する者は一般的にこの点を忘れている)。なぜなら、それはポッパーの反証可能性を持っているからである。この説に反証するためには、「炭素に基づく生命にとって水と同程度に代替できる液体、二重らせんより性能のよい遺伝情報の保存媒体を作る方法、酸化に勝る生化学的過程、そして蛋白質、脂質二重膜、細胞系、重炭酸塩、リン酸塩などよりも性能のよい構造」を見つければよいだけのである。

デントンが理論的な結論を引き出すのはそれらすべての後のことである。「神が人間の形を創ったことを前提とする受肉という教義により、キリスト教ほど宇宙における人間の絶対的中心性や特異性に依存している宗教はない。中世キリスト教の人間中心的な見方は、人間が作り出した最も奇妙な考え方だろう。それは根本的で決定的に思いあがった理論である。厚かましさにおいてこの理論に匹敵するものはない。なぜなら、すべてが人間の存在と関係があるからである。・・・科学革命がアリストテレスを追放し、目的論的思弁を時代遅れのものにし、この考え方を破壊したかに見える4世紀後、絶え間なく続く発見の流れは目的論に見事に回帰した。4世紀の間無神論と強く結びついていたかに見える科学は、2千年紀の終わりについにニュートンや彼の多くの初期の支持者が切に望んでいたもの、すなわち人間中心主義的信仰の擁護者になったのである」

このように「コペルニクスの亡霊」を祓うことができる。人間は地理学的には最早宇宙の中心にはいないが、より微妙なやり方で宇宙の進化の最終点として中心的な位置を取り戻している。これらの文章を読んだ人には驚きに見えるだろうが、デントンはキリスト教信者ではない。彼がしていることは、自然の化学的、生化学的性質の中に見る一連の偶然の一致がキリスト教神学の中心的な論点を支持していることを認めさせるだけなのである。

彼の現在の仕事は、生気論と生物は機械と根本的に異なることの証明を復権することである。

「生物の領域における還元主義の完全な失敗と新しい形を作り出す試みの完全な失敗は、機械の領域と対照的である。飛行機やタイプライターの特徴や全体の動きは、構成要素の完全な分析を「下から」することにより非常に正確に予見できる。それは機械の構成要素が複雑な相互作用やフィードバックを組み込まなかったからである。・・・反対に、有機的なシステムは本質的には全体から部分に向かうトップ・ダウンが実体である。有機的な形態は部分を超えた全体性であり、そのものに特有で、しかも全体の機能においてのみ現れる秩序を持っている。・・・有機的な集合は独立した分子からひとつずつ積み上げて組み立てることはできない。なぜならその部分は全体の中にしか存在しないからである」

考慮すべき興味深い点は、生物は機械と類似すると考えるダーウィン主義やインテリジェント・デザインを彼が同時に反駁していることである。


mercredi 3 mars 2010

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (9)

(photo source: Steve Paulson's article)


スチュアート・カウフマン(サンタフェ研究所の生物学者で数学者)は、自己組織化を唱える別の学派に属する。彼を見ると、進化そのものの漸進主義(これは次の章で見るように、私には守ることができないように思われるが)ではなく、進化に関する立場における漸進主義の存在が齎す問題が明らかになってくる。彼が弱い非ダーウィン主義者なのか、非常に弱いダーウィン主義者なのかはっきり言うことができないのだ。しかし、彼の立場には根本的にダーウィン主義から離れている側面がある。

「ダーウィン以来、われわれは自然選択というひとつの力に向かった。・・・それなしには、一貫性のない無秩序以外の何ものでもないものしかない存在しないとわれわれは考える。私はこの本で、その考えが間違いであることを論証したい。これから見るように、秩序は偶然の出来事ではなく、自然発生的秩序という大きな『鉱脈』が存在することを複雑性と創発の科学が示唆している。・・・この自然発生的秩序の広がりは、われわれが考えていたよりもはるかに大きい。・・・自然発生的秩序の存在は、ダーウィン以来生物学において確立された概念に対する素晴らしい挑戦である。・・・もしそれが正しいとすると、どのようなダーウィン的世界観の改訂が待ち受けているのだろうか。われわれは偶然の出来事ではない。予期されていたのだ。しかし、ダーウィン主義の概念の改訂は容易ではないだろう。生物学者は選択と自己組織化を結びつける進化の過程を研究するための概念的枠組みを何も持っていないのである。どのようにして自然発生的秩序をすでに持っているシステムに対して選択が働くのだろうか」

「われわれは予期されていた」という表現は、間違ってはいけない。カウフマンは目的論者ではなく、コンウェイ・モリスとは異なり、条件が多少とも同じであったとしても進化は繰り返すことはないと考えている。彼の言いたいことは、自然の法則が、偶然の変異以外のすべての自然の『基礎となる物質』を自然選択に与える、複雑な秩序の階層を自然発生的に出現させるということである。これらの秩序は自然の法則に根を張っているので、われわれが「宇宙の中のわが家」にいることを新たに感じることができ、彼によるとダーウィン主義は世界からすべての意味を取り除いた。「楽園は罪によってではなく科学によって失われた」のである。


lundi 1 mars 2010

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (8)

(Photo: Dudley Simons)

サイモン・コンウェイ・モリス(ケンブリッジ大学教授)は、現在最も重要な古生物学者の一人である。彼もまた自然の中で作用しているのはダーウィン主義のメカニズム以外にないと考えており、自らをダーウィン主義者と見做している。しかし、彼はこう主張する。 「本書の主な目的は、進化に影響を与える拘束と多くの『収斂』の現象の存在により、われわれのようなものの出現がほとんど必然であることを示すことである」。コンウェイ・モリスの言う収斂は、進化の中で多くの経路がほとんど同じ結果に至る事実のことである。もし鮫、イルカ、プレシオサウルスのような海竜が同じ形をしている(泳げるように形を整える方がよいのだ)のが当然だとすると、共通祖先が目を持っていないにもかかわらず、蛸と人間が網膜の方向を除き類似の構造の目を持っていることや、オーストラリアのある種の有袋類が有胎盤哺乳類の中で対応するものと全く同じ頭蓋を持っている理由を説明できない。

「収斂」の例を増やすことにより、コンウェイ・モリスはダーウィン主義者の主張とは異なり、生物学的に可能なすべての形の総数は限られていること、そしてこの限界が進化に対し非常に厳しい拘束を強いることを示そうとする。「現在のコンセンサスは、それぞれの種は偶然による過程の結果であること、そして非常に多くの可能性があり、それはおそらく銀河系で居住可能な惑星の数よりずっと多いことである。このような考え方によると、ある惑星の住人が他の衛星の住人と似ていることはあり得ないだろう。進化論の収斂という現象は逆に選択の余地が厳密に限られていることを意味する。・・・もしそれが正しいとすれば、進化が特定の機能的な解決に向けて『操縦』するやり方は、生物学のより一般的な理論の基礎を提供する可能性がある。このアプローチは進化の軌跡を安定した機能的な形態に導く『引力』にも似たものの存在を前提としている」。

そして彼は私は重要な点だと考えている点を主張するところまで行く。「私は、このような研究プログラムが生物学の最も深いレベルを明らかにすると考えている。そこではダーウィン主義による進化が中心的な概念であり続けるが、可能な限りの機能的形態はビックバン以来前もって決定されている」。

ビッグバン以来、可能性のある形として機能的形態が前もって存在すること、生物学における新たな理論の必要性、進化を導く引力のようなものの存在、人間に似たものの必然的な出現。これほど新ダーウィン主義から離れた考え方を現代の最も重要な古生物者の一人が擁護しているのを見るのは異様である(何という皮肉か、彼の仕事はグールドの著作「ワンダフル・ライフ」で褒められている)。しかも彼は自らをダーウィン主義者と名乗っているとは。このことはイデオロギーがこの分野にどのような影響を与えているのかをよく物語っている。自らを新ダーウィン主義と主張しなければならない。そして、考えがどうであれ、そうしなければ社会学的にも科学的にも死んでしまうのである・・・。

ここでコンウェイ・モリスは、惑星は常に太陽の周りを回っているが、地球は依然世界の中心にあるというモデルを打ち立てたティコ・ブラーエと同じ状況にいる。コペルニクスやガリレオとは異なり、ティコ・ブラーエのシステムは決して有罪宣告を受けることはなかった。その普及により、確かに多くの精神が開かれ、宇宙に関するわれわれの考え方は発展することになった。それで、今日、進化におけるティコ・ブラーエの役を・・・ガリレオの到着を待ちながら演じているかもしれないコンウェイ・モリスの思想が重要になるのである!



dimanche 28 février 2010

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (7)

弱い非ダーウィン主義者:方向性を持った偶然

ここに完全なダーウィン主義者であると自ら名乗る科学者を見つけて驚くかもしれない。それは、すべての分類において本人がどう言うかではなく、その人の取る立場によりレッテルが張られることを忘れているのだろう。トニー・ブレアは労働党党首であるから左派であると本心から主張することができる。しかし、多くの解説者は多くの右派政府よりもさらに自由主義的な経済政策を取る彼を右派の人間に分類している。毎週日曜日にミサに行くので善良なキリスト教徒であると主張できるが、彼の友人や妻は日々の暮らしを見て彼をキリスト教徒とは考えないこともあり得る。

既に見たように、グールドや他のダーウィン主義者は、もし進化をやり直さなければならないとした場合、そこで新たに意識を持った生物が生まれる可能性は低いと考えている。さらに多くのダーウィン主義者は、ダーウィン主義に反対する議論のひとつが進化の過程で生まれる収斂に依拠していることを認めるだろう。「ダーウィン主義に反対の進化論者は、異なる祖先において非常に類似した適応が繰り返し展開することを、進化は何の計画も方向性もないとするダーウィン主義の中軸概念に反する議論として提示してきた。異なる生物が何度も同じ結論に向けて収斂する事実は、変化の方向性が前もって決定されていて、偶然の変異に自然選択が作用した結果ではないことを意味していないだろうか。繰り返し現れる形自体をそこに導く多くの進化の現象の最終原因と見做すべきではないのだろうか」

もちろん、ダーウィン主義者は進化には傾向があることをよく知っている。「定方向選択」という言葉は、選択が例えば身長の増加という流れに沿った同じ方向性の中で常に働く作用を表わすために作られた。したがって、すべての問題は、環境の制約と結びついているダーウィン主義のメカニズムが引き起こし得る反復性がどのようなものかを知ることである。

異なるダーウィン主義の学派が許容可能な限界を超えて進化の反復性を強く主張する次の人たちを、ダーウィン主義者の仲間に分類することは論理的に不可能であると私には見える。それほどまでに、彼らの考え方はこれまで見てきたダーウィン主義者(強弱に関わらず)のすべての考え方に反するのである。



クリスチャン・ド・デューブ(細胞に関する研究によりノーベル医学生理学賞受賞)は、生化学の法則が非常に厳格な制限を加えているので、偶然には方向性が与えられ、生命の出現、ひいては意識の出現は宇宙において必然的に何度かは起こると考えている。「私が擁護する理論によると、必要条件が出揃う(とすぐに)すべての場所で知性を生み出すのは、生命の本質そのものの中にある。意識的な思考はわれわれの生物圏に特有の随伴現象としてではなく、物質の根本的な表現として宇宙論的な図に属するものである。思考は他の宇宙により生み出され育まれている」

クリスチャン・ド・デューブはここで思想を分析する「非ダーウィン主義者のなかで最もダーウィン主義的」である。事実、彼の進化のメカニズムはダーウィン主義者によって唱えられたものである。違いは、進化を全体的に見た時に、問題点が「誤魔化され」、生化学の法則が生命の誕生のみならず、(さらに大胆な立場を取り)意識の誕生にも導くはずであることに気付く点になる。アインシュタインの有名な言葉、「神はサイコロを振らない」に対してクリスチャン・ド・デューブが言っている。「神は勝つことを確信しているのでサイコロを振る」

この点で、彼の立場はジャック・モノやフランソワ・ジャコブのような古典的ダーウィン主義者の立場とは根本的に異なっている。グールドや彼の細菌の賛辞に特に反対する。彼は進化の過程で複雑性の増加に向ける進展があると考えている。グールドの「最少複雑性の壁」の隠喩に対して、彼は木の隠喩で応じる。すべての葉にすっかり覆われた木は茂みのようにあらゆる方向に伸びている印象を与える。しかし、その葉が落ちた時、横に伸びた枝がどれだけあろうが、垂直に立つ幹という中心的な構造があることに気付く。クリスチャン・ド・デューブにとっての進化はまさにこの構造を持っており、人類は今のところ木の頂点に位置している。しかし、そのことを自慢すべきでは全くない。実際のところ、この立場は一時的なものに過ぎず、さらにずっと進化した生物がわれわれの後に続く(あるいは、もし核による災害でわれわれが消滅すると他の惑星で出現する)と彼は考えている。

クリスチャン・ド・デューブは哲学的にこう主張する。「私は宇宙は意味のない空間ではなく、意味深いものであるという立場を選んだ。それは、そうであることを私が願ったからではなく、われわれが持っている科学的データを解釈するとそうだったからである」。彼の考えは汎神論に近いように見える。著書は「生命に」捧げられ、それは彼にとって「宇宙における至上命令」である。外から見るとクリスチャン・ド・デューブの考え方はある種の目的論に駆り立てるように見えるかもしれないが(超ダーウィン主義者はこの点について彼を攻撃することを見逃さないのだが)、彼自身はこの考えを完全に否定している。進化は盲目的な過程ではなく、どこにも書かれていない最終点に向けて導かれる開かれた過程である。ホワイトヘッドにより考えられたアングロ・サクソンの「プロセス神学」では、神はそれをもとに自然の創造性を創出し、進化の結果を前もって決定することはできないとするが、ここで「プロセス神学」との和解が可能になる。


mardi 16 février 2010

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (6)



弱いダーウィン主義者:偶然の優位

スティーヴン・ジェイ・グールド
は、確実に20世紀最大の進化論の専門家の一人であり続けるだろう。それは、単に彼が多作の作家、素晴らしい教育者(進化の概念について読者に語った多くの物語が、単に「パンダの親指」のような生物学的異常についてだけではなく、野球の歴史やチョコボールやミッキーマウス人形の大きさの進化も扱っていた!)であっただけではなく、ダーウィン主義の概念に二つの革命を齎した原点にいたからでもある(彼の敵対者たちは、それは単純な「適応」についてだと言うだろうが、彼らが適応主義者なのだから尚更重要なのである)。

最初の革命的なことは、彼がナイルズ・エルドリッジとともに「断続平衡」という概念が出ている論文を発表する1972年に始まる。グールドが確認するように、「ダーウィンによれば、祖先とその末裔たちは漸進的な段階が一つの連続となる過渡的関係が無限に結びついていなければならない」

それが古生物学の層に残された「資料」における有名なミッシング・リング(失われた環)の問題である。グールドは躊躇することなく、こう書いている。「過渡的な化石の形が極端に珍しいことは、古生物学の専門家の謎として残っている。われわれの教科書を飾る進化の系統樹は、枝の末端と分岐についてのデータしか持っていなかった。それ以外は演繹から成り立っていて、もちろん可能性はあるが、どの化石もそれを確認ところまでいっていない」

ダーウィンとそれに続く強いダーウィン主義者は、それが化石の記録の不完全さによるものだといつも主張した。地上に生存した100万人以上の個体のために、ひとつの個体だけが完全に化石化するのである。しかし、「自然は飛躍しない」、生命は静かに流れる長い川であり、種は感知されないようにゆっくりと進化する。この点がデネットなどの強いダーウィン主義者には種の「本質」がないのだから種の概念は疑わしいとされるのである。

ここで初めてグールドは、過去、現在、そして未来のすべての反ダーウィン主義者の中心になる説明、すなわち、すでに発見されている化石の構造は漸進主義と対立することを主張する。

「大部分の種の化石の歴史は、漸進主義と合致しない二つの特徴がある。一つは、安定性である。大部分の種は、地上に存在したすべての期間において、方向性を持った変化を一切示していない。われわれが手にしている最初の化石は、最後のものと非常によく似ている。形態学的な変化は一般的に限られていて方向性もない。もうひとつの特徴は、突然の出現である。ある地域において、一つの種が祖先の規則的な変化の結果、徐々に現れることはない。それは突然、『完全にできあがった形で』現れるのである」

古典的ダーウィン主義者の重要な議論は、たとえ「ミッシング・リング」が化石化されないとしても、それは進化が漸進的な現象であることを妨げるものではないというものだが、この議論は最早成立しなくなる。化石の記録が長期にわたる種の安定性や短期間における急激な変化を明らかにする事実は、グールドがこの考えはダーウィン主義者の間でも稀なので尚更歓迎しなければならないと強く(素直に)主張するように、明らかに進化の漸進主義の考えとは対立する。

このことは進化論を捨て、種は神により地上に「完全な形で創られ」齎されたとする創造論に返らなければならないことを意味しているのだろうか。アメリカの創造主義者たちは、かれらの主張のためにグールドの言葉を利用することを忘れなかった。しかし、それは事を少し急ぎ過ぎており、不誠実な創造主義の回復である。なぜなら、そこで「断続平衡」の概念が介入するからである。

この説によれば、進化は大集団の中では決して起こらず、非常に強い制限のかかった小集団の中でしか起こらず、そこで一つの種から別の種への「種分化」があるとされる。その現象は(地質学的に見ると)非常に速く、一つの新種が出現し、繁殖し、時には母体である種を犠牲にして祖先の領域を占領するのには、数千年、時には数百年しかかからない可能性があるとグールドは考えている。例外を除けば、進化が化石化により写し取られるには、変化があまりにも少数の変異体に、しかもあまりにも短い期間しか起こらない。

強いダーウィン主義者は、そこには自然選択により篩にかけられた変異という古典的なダーウィン主義しかないと騒ぎ立て、この考えを「併合」しようとした。その過程が10万年の代わりに千年かかるとしても何も変わらないとした。大進化(種以上のレベルの変化)がたとえ促進されたとしても小進化(種内の変異)と同じメカニズムで起るもので、すべてはダーウィン主義が可能とする最良の世界の中の最良のままである。これがデネットやドーキンスが次のことを証明するために多くの時間を割く理由である。

1. グールドは何も創り出していない。
2. 根本的に新しく、自然が本当に飛躍するというダーウィン主義に対する恐るべき冒涜になることを言っていない。

事実、たとえ「断続平衡」がより速い進化的変化のリズムを提唱するとしても、それは人間のレベルにおいてはあくまでも漸進的現象である。そのことをグールド自身はこう言っている。「たとえあなたの全人生の間、注意深く種分化の過程にあるミツバチを観察したとしても、おそらく何も見つけることはできないであろう」。したがって、「断続平衡理論は大進化の理論ではない」。それは高みから眺めた時、進化は飛躍しているように見えるが、近くで見ると飛躍しないということを意味している。

しかしながら、断続平衡理論がマクロ変異に依存しないからと言って、親と異なる特徴を持つ個体が現れる時、このような現象が存在することを否定することにはならない。「パンダの親指」の中で最も魅力的な章のひとつである「有望な怪物の帰還」が示すように、グールドがその存在を強く信じていたことは明らかである。グールドは1940年代の遺伝学者リチャード・ゴールドシュミットを復権しようとする。グールドがこのように打ち明けたので、その仕事は重いものである。「ジョージ・オーウェルの小説『1984年』の暴君ビッグ・ブラザーが人民の敵エマニュエル・ゴールドスタインに毎日2分間嫌悪を放送した。私が1965年頃大学で進化の生物学を勉強した時、正統からのあらゆる嘲弄や批難が、正しい道を踏み外したと言われた有名な遺伝学者のリチャード・ゴールドシュミットに集中していた。しかし、私は次の10年で進化生物学の世界で復権するのはゴールドシュミットだと確信している」

一体ゴールドシュミットはどんな酷い罪を犯したと言うのだろうか。大進化を可能にする過程は肉眼で見えるものとは同じではなく、それが小進化を担っていることを主張した彼が。それは大部分の強い非ダーウィン主義者が言っていることである。ここで、このような立場がダーウィン主義者の一部に引き起こす反応の暴力性について指摘することは重要である。1960年代に正しかったことは現在でもそうである。

自然は時に怪物を作るが、一般的には生存できない。しかし、10万にひとつの怪物が生存可能だと仮定してみよう。それは親とは異なる世界に適応する可能性のある「有望な怪物」ということになる。ゴールドシュミットにとっての大進化とは、古典的なダーウィン主義ではなく、このような有望な怪物の稀にしか起こらない成功に依存している。

グールドはそこには何ら非常識なことはないと考える。「ダーウィン主義者として、ゴールドシュミットの提唱する次の前提に賛意を表したい。すなわち、大進化は小進化の単なる演繹ではなく、最も重要な構造の移行は、中間相の長い連続が先行することなく突然起こり得ることである。・・・顎や翼が半分だけで何の役に立つだろうか。前適応の概念は、新たに生まれる段階は別の機能を満たすものであることを主張して古典的な反応を齎す。半分だけの翼は獲物を捕まえたり体温を調節するためのものであった。私は前適応を重要な、さらに言えば不可欠な概念であると考える。しかし、もっともらしい話は必ずしも正しくはない。ある場合には前適応が漸進主義を救い得ることを疑わないが、大部分あるいはすべての場合にそれが連続性を説明するものだろうか。私の想像力の欠如かもしれないが、私は否と答えたい。この考えに適合する最近発表された二つの不連続な変化を提示する。(そこでグールドは、脊椎動物に特徴的な現象であるいくつかの齧歯目の頬の外の袋と上顎の中央の関節がモーリシャス島の蛇に現れることを指摘する。)これらの事実・・・と他の同様な現象は、ずっと以前に私の漸進主義に対する信を打ち砕いたのである」

そしてグールドはダーシー・トンプソンの有名な論文「成長と形態について」の一節を引用してその章を終える。「代数曲線はそれが属する科の基本的な様式を持っている。円を頻度曲線に変換することなど決して考えない。動物の形態にしても同様である。無脊椎動物を脊椎動物に変えることはできない。・・・自然は一つの形から別の形に変化する。これらの形の隔たりを越えるための足場を探すことは、永久に無駄なことである」。したがって、グールドにとっていくつかの移行は突然起こるもので漸進的なものでないことは明らかである。なぜこれがそんなに重要なのだろうか。なぜならダニエル・デネットやリチャード・ドーキンスが偶然だけでは「有望な怪物」を生み出さないことを論証するのに大量の時間を使っているからである。このような大進化の存在を認め、進化において最も重要な役割を担わせることは、「非偶然」への扉を開けることで、強いダーウィン主義者には耐えられないことである。グールドは偶然が想像されるよいずっと多くのものを生み出し得ることを主張して自己弁護する。

そして、そこにこそグールドの第二の革命がある。今回は、リチャード・ルウォンティンとの共著で、「サンマルコ大聖堂のスパンドレルとパングロス風パラダイム:適応主義者のプログラムの批判」というおかしな表題の論文を発表する。この論文は進化生物学で最も引用される論文のひとつになっている。それは生物学とは何ら関係のない例を用いる適応主義の徹底的な批判である。ここではベニスにあるサンマルコ大聖堂の穹隅について扱っている。丸天井を造る時、穹隅はアーチにより結ばれる柱の上に設けなければならない。三角形の形をする空間(図10.1参照)がそれぞれの柱の頂点に現れることになる。

図10.1
教会の丸天井を支える穹隅
この部分は丸天井のために必要であり、
この部分のために存在するのではない。

これがティンパヌム、あるいは穹隅である。グールドの言い分は、この部にある空間をどうしても埋めることが不可欠になる。それは教会に特別な何かを齎すために穹隅は存在するのではなく、ただ単に丸天井の存在がこの種の副産物の存在を前提としているからである。グールドとルウォンティンは、強いダーウィン主義者が生物のすべての特徴の存在理由を説明しようとする時、作り話をすると感じている。ある特徴にはサンマルコ大聖堂の穹隅以上の存在理由は最早なく、生物にとって切り札となる他の特徴の副産物として存在する。これらのティンパヌムにより生体に付与される切り札を明らかにするために進化論による理論を発展させようとすること。それは自然選択がティンパヌムを選択したであろう理由を説明することになるが、「この最善なる可能世界においては、すべては最善である」と言い張るヴォルテールの善良なパングロス博士の論理と同じように不可解である。適応ではない臓器を表わすティンパヌムという言葉は成功を収め、今日広く広がっている。

グールドにとって自然選択を矮小化するこのやり方は、理論的に偶然に起こる出来事の役割と進化における偶然性の過大評価を意味している。グールドのもう一つの挑発的な考えは、進化の過程において複雑性を増すような方向への真の進歩はないというものである。

「しかし最後には、最も無分別な生物学者でさえ最初の生細胞から人間の出現までに起こった複雑性の著しい増加を認めることができると私に言うでしょう」。グールドにとって、それは幻想である。彼は基本的に「最少複雑性の壁」が存在すると言う(図10.2参照)。

図10.2

細菌は最も複雑性が少なく、理論上存在し得る最も小さい生物にかなり近い。細菌はいつも地球の主要な生命体であった。グールドは細菌が150℃、地下10kmに至るまで存在していること、その有用性、多様性、地上から消すことのできない不可侵性などに対して、文字通りの頌歌を捧げる。

「この壁のお陰で図の左には行くことのできない生命は、より複雑な右に向けて進化するしかなかった」。しかしそれは何も意味しない。「生命の歴史における有名な進歩は、このように祖先の最も小さな生物から離れる偶然の運動であり、基本的に有利な複雑性に向けての一方向の衝動的な動きではない」

グールドは宇宙における複雑性の頂点という特別な位置を人間に与えることに対して激しく対抗する。「確かに右側は存在するはずである。しかし、その生物は部分的には不確実で完全な偶然による全く予測不能の産物であり、進化のメカニズムによりあらかじめ決められているものではない。左の壁近くから始め、多様化が拡大するように放置するという生命のゲームを好きなだけやり直してみなさい。ほとんど常に右側に行くだろう。しかし、毎回最大の複雑性を占める場所にいるのは、見事に異なり、全く予想できないものだろう。この試みの大多数は、意識を持った生物を決して生み出すことはないだろう。人間は純粋に偶然の産物で、生命の方向性が持つ必然の結果でもなければ、進化のメカニズムの結果でもない」

グールドはこの主張を何度も繰り返すことになる。その現実的な例を提供するために、彼は有名な作品(「ワンダフルライフ」)においてカナダのバージェス動物群を解析する。そこには5.7億年前の化石に閉じ込められた無脊椎動物が非常にたくさんある。その中には甲殻類、蜘蛛、昆虫の祖先と同時に、既知の動物のいずれにも当てはまらない30ほどの原型が含まれている。例えば、当時のすべての無脊椎動物より大きな体長60cmのアノマロカリスや驚くべきハルキゲニア(図10.3参照)とその触手がある。

図10.3
幻覚 (hallucination) を引き起こすところから名付けられたハルキゲニア (Hallucigenia)
© サイモン・コンウェイ=モリス(ケンブリッジ大学)

ところがこれらの注目すべき動物は子孫を残さなかったが、ピカイアがいた(図10.4参照)。

図10.4
われわれの共通祖先ピカイア
© サイモン・コンウェイ=モリス(ケンブリッジ大学)

しかし実際のところ、これは最初の脊索動物で(背中全長に渡りわれわれの脊柱の祖先に当たる棒状のものを持つ)、すべての脊椎動物の祖先になる。ハルキゲニアやアノマロカリスのような生存競争により適しているような種が絶滅したのに対して、なぜピカイアのような生物が生き延びたのだろうか。

スティーヴン・ジェイ・グールドによると、そこには特別な理由は何もなく、この生存の基にあるのは全くの偶然で、それなしにはわれわれの存在は決してなかった。「なぜ人類が存在するのか?・・・それはピカイアが十分の一刑にも相当する厳しい条件を生き延びたからである。この答えはひとつの自然の法則も援用するものではない。それは進化の過程の予測可能性についていかなる推論にもよらず、またエコロジーや解剖の一般的な規則に基づく蓋然性の計算にもよらない。ピカイアの生存は偶然であり、そこには歴史は全く関与しなかったのである」。このことからグールドは再度こう言う。「このような命題から次のように結論する。人間の性質、立場、潜在能力に関する生物学に与え得る最も洞察力ある判断はこの時期にあり、すべての偶然を具現化した。ホモサピエンスは生命の歴史におけるひとつの細部であり、ある傾向を具現化したものではない」

この人間嫌い、バイオスフィアにおいて人間が占める位置を減少させようとするこの意志があるからと言って、グールドは人間の権利の擁護者であることを止めなかった。彼は「人間の測り間違い」、すなわち生物学のデータ、知能検査、ニセ科学によるすべての論証を人種差別や優生学のために用いることに抗議した。社会生物学や遺伝子決定論に依拠する考え方に対して辛辣さを以って戦った。マルクス主義の伝統の中で育ち、不可知論者ではあったが、科学と宗教の関係についての著作を残すほど宗教に敬意を払っていた。彼はその中で、「重複することなき教導権」(NOMA)という概念を提唱している。科学の教導権は、宇宙は何から成っているのかという事実となぜそのように機能しているのかという理論を明らかにする経験主義の領域に関与する。「宗教の教導権は最終的な意義や道徳的価値を重視する。この二つの教導権は相互に侵害することはない」。

この点に関して、グールドがアメリカの学校において「創造論の科学」を教えることに対して科学者の戦いの先頭にいたことを思い起こそう。この教育は、進化論の科学の教育や創世記の文字通りの解釈に信憑性があることを説くニセ科学の議論(人間がディアノサウルスと同時代に生き、地上における生命は一万年を超えないなど)の紹介と並行して必修を狙ったものであった。

これらの不合理との対立により、彼は領域のあらゆる混同に対して戦うと同時に、宗教の支持者(アメリカでは彼らのすべてが創造論者であることは全くない)に対しては自分が彼らの敵ではないことを示すようになった。しかし、この厳密な分離の原則により、彼が習合を激しく非難することになる。すなわち、科学界で完全に認められている事実や理論に依拠する彼と同じレベルの科学者が、科学の進歩は世界の非物質主義的な概念に証明だけではなく信憑性をも与えると主張できることに対する攻撃である。

この本を読んでいるあなたにとっては特にはっきりしているこの学派の発展の前で、グールドは冷静さを失い、こう認める。「私は習合の議論があまりにも不備で、あまりにも非論理的で、あまりにも全くの願望にしがみつき、あまりにも原則や過去の確実性を背負い込んでいるので、表情を平静に保つことも筆を落ち着かせることも難しいのである」

彼の筆の中に、科学の博士号もない創造主義者によって表明される不合理ではなく、量子物理学や人間原理に対する同輩の考察を評するために 「驚くべき愚劣」、「曖昧な隠喩」、「お手軽な非論理性」という決まり文句を見つけることにより、彼が普段敵対者に対してどこまでが尊敬に値するのかをわかった時、彼は意識するしないにかかわらず、「重複することなき教導権」にとって唯一の深刻な脅威になるのが創造主義者ではなく習合主義者であることを理解していることがわかるのである。

グールドの個性はこのように弱いダーウィン主義者の中にあり、彼の同僚であるナイルズ・エルドリッジ、リチャード・ルウォンティン、スティーヴン・スタンレーの考え方は主な点については彼と余りにも近いので、この学派の思想を描くために彼の著作に集中的に取り上げた。しかし、(理論的には)偏見のない科学者と言えども先入観を持つ可能性のあり様を発見するためににルウォンティンを引用するのは興味深いものがある。「われわれは物質主義へ前提としての義務を負っている。それは科学の方法や体制が現象の世界を物質的に説明することを求めているためにわれわれを縛るのではなく、反対にそれがわれわれの直感と対立し、素人を当惑させることになるとしても、物質的な説明をもたらす研究方法や一連の概念をわれわれに生み出させるのは、われわれ自身の物質的因果関係に対する前提としての同意なのである。さらに、物質主義は神の存在を少しも受け入れることができないという意味で絶対的である」

ルウォンティンは彼のような賢者でも(ここで言う「われわれ」にはグールドも含まれる)客観的な科学的データではなく観念的先入観に基づいて物質主義のために身を投じることを強調すべき誠実さをもって認めている。このことは、なぜ進化のメカニズムを冷静に考えようとする時に思考が熱を帯びてくるのかを理解する上で非常に重要である。



dimanche 3 janvier 2010

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (5)


ダニエル・デネットは科学者ではなく、認知科学領域の哲学者で、米国タフツ大学教授である。脳と意識(13章で扱う)についての考察から、強いダーウィン主義の最良の作品のひとつと考えられている総括の本(「ダーウィンの危険な思想」)の執筆に至った。

彼はダーウィンの中心思想を、進化とはダーウィンが自然選択と名付けたひとつのアルゴリズム、盲目的で機械的な過程であると考える。デネットはアルゴリズムという考えにひどく固執する。普通、アルゴリズムは物事を単純化するが、自然界においてわれわれが観察する特徴はダーウィン主義のアルゴリズムで創造されている、と彼は言う。

「表面下の過程は、個々を見ると盲目的な段階以外の何ものでもなく、知性的指揮の助けなく進行する」
「好むと好まざるとにかかわらず、このような現象がダーウィン主義の力の中心を現している。小さな分子機構がすべての究極の源泉であり、その意義の、つまり宇宙における意識の源泉である」

単純なものが複雑なものを作り、自然のすべての形は人が入り込めない盲目的なアルゴリズムの結果であるという見方に夢中になり、デネットは自身が言うところの「ダーウィンの危険な思想」を万能の酸に喩えている。

接触したすべての物資を溶かしてしまう万能の酸のように、ダーウィンの思想は出会ったすべての概念を崩壊させる。その中には、プラトンの思想やアリストテレス主義の「本質」が含まれる。「本質」あるいは「イデア」に対応する「自然種」という概念も意味をなさなくなる。そこにはドーキンスの場合と同様に、ある種から他の種へゆっくりと移行し、種とはゲノムが常に進化するために生じた少しずつ異なる個体の集合であるとする進化の漸進主義の思想が見て取れる。

デネットは自然選択の力にこのような(盲目の!)信を置いているので、躊躇なくこう書く。「知識人が自然選択仮説に対する強力な反論に見えるものに出会った時、このような理屈をつける。この反論をどのように覆すのか、この問題をどのように解決するのか、私にはまだ考えが浮かばない。しかし、自然選択以外にこの結果の原因があり得るとは想像できないので、その反論には根拠がないに決まっていると考えるだろう。いずれにせよ、この結果を説明するためには自然選択で十分なのである」。

デネットは自分が書いたことの重大さを完全に意識しているのだ。こう言って自らを正当化する。自然選択は多くの挑戦を受け、多くの成功を収めたので、「最終的に誤りになるだろう考えは、このような批判の執拗なキャンペーンにすでに敗れたことになると考えるのは理にかなっている。もちろん、それは議論の余地のない証明ではなく、非常に説得力のある論拠に過ぎないのだが」。ニュートン物理学が全く異なる概念によって置換されるまで300年に渡ってあらゆる攻撃に耐えたことを考えると、この議論にはそれほど説得力はない。12章で触れることになる一つの思考停止の状態を雄弁に語るものである。

この他のデネットの中心的思想に適応主義がある。「適応主義の論理にはわれわれが自由に選択できる余地はない。それは進化生物学の心であり精神だからだ。それが改善され修正できるとしても、生物学の中心的な立場から降りるのを思い描くことはダーウィン主義の凋落のみならず、医学同様に生化学や他のすべての社会科学の衰退を想像することになるからである」。彼は適応主義を「リバースエンジニアリング」と比較するのだ。エンジニアが競争相手の製品を分解する時、「なぜこの線はこのように太いのか」とか「なぜこの型の合金をここに使ったのか」というような疑問を自らに問いかける。もちろん、デネットはしばしば質問に対して答えがなく、ある解決が選択されたのは偶然であることを認める。しかし、大多数の例ではひとつの解決がある。同様に、生物に特徴的な相違を眺める時、その大多数の例ではそれが偶然にそこにあるのではなく、先祖の生存環境への適応から来ているのである。

なぜこのような適応主義の論理が強いダーウィン主義者にとってこれほど重要なのかを理解することは重要である。彼らにとって、自然選択は非常に効果的なもので、全くの偶然による変異から驚くべき適応を惹起できるのである。したがって、生物の大部分の特徴は適応の結果であるべきなのである。

デネットはまた「クレーン」と「空のフック」(skyhook)という概念と作った。クレーンとは物をある地点から別の地点へ移動することを可能にする恒久動力である。これは生命の歴史において、種が正常のメカニズムでは越えることのできない重要な進化の隔たりを越えることを可能にするものだろう。制御遺伝子の変異はこの「クレーン」の一つの例になり得るだろう。

「空のフック」は虚空に吊るされた神秘的で、驚異的で、途方もない動力である。デネットは常に非ダーウィン主義者や非還元主義的見方を取る人を非難している。

そして、現代文明が象のような巨大な哺乳動物にとって毒になるように、ダーウィンの危険な考えも宗教にとって脅威になる。なぜなら、それはすべてを溶かしてしまう普遍的な酸だからである。デネットは、象は救うべきだがどんな代償を払ってもということではないと言う。同様に宗教も救済すべきだが、何を受け入れてもということにはならない。「安全のために絶対に必要とあれば、宗教は隔離されなければならない。われわれは女性性器切除や、イスラム教とまでは言わないが、ローマ・カトリック教会やモルモン教における女性の低い地位を単純に受け入れることはできない」

同様の論理によって、米国の私立キリスト教学校における創造論教育を禁止すべきだというところに向かわざるを得なくなる(デネットは巧妙に教育におけるダーウィン主義批判を禁止しないようにしているが、実際には禁止から遠く離れるものではないように見える)。したがって、宗教が占める最良の場所は動物園ということになる(これは冗談ではないのだ!)。「われわれの宗教の伝統のすべての栄光はどうなるのか。言語、芸術、習慣、儀式、記念碑と同様に確実に保存しなければならない。今日の動物園は絶滅の危機にある動物のための二流の避難所と考えられるようになっている。しかし、少なくともこれらの避難所は存在し、保存されているものは置換不能である。・・・もし宗教が文化的な動物園や図書館、コンサートや催し物で保存されるとすると何が起こるのか自問することができる。そしてそれはすでに起こっている。旅行者がアメリカインディアンの部族の踊りを見るために群がるが、彼らにとってそれは民俗芸能であり、敬意をもって扱わなければならない宗教的儀式である」

もちろん他にも強いダーウィン主義者は多数いる。エルンスト・マイヤー、ジョン・メイナード・スミス、マーク・リドリー、あるいはフランスにおいては輝かしい先達のジャック・モノ、フランソワ・ジャコブは言うに及ばず、マキシム・ラモット、ミシェル・デルソルなどが。しかし、彼らはドーキンスやデネットがダーウィン主義に対して行った説明に何も根本的に新しいものをもたらしていない。