dimanche 7 mars 2010

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (10)

強い非ダーウィン主義者:偶然と自然選択を超えて

1.進化の反復性


(photo source: Harun Yahya)


マイケル・デントン(ニュージーランド、オタゴ大学教授の生化学者、遺伝学者で、目の遺伝学の専門家)は、クリスチャン・ド・デューブよりさらに遠くに行っているコンウェイ・モリスよりもさらに遠くへ行こうとする。彼のものの見方は、生物学的形態は任意のものではなく、複雑な数学的形を取り入れていると説明するダーシー・トンプソン(後述)と同様の考え方から出発する。蛋白の形は物理学により与えられたものであるという命題を示す「プラトン主義の形態としての蛋白の折りたたみ:自然の法則による進化の前ダーウィン主義の概念への新しい支持」という暗示的なタイトルの論文で、それが正しいことを明らかにする。蛋白はそれ自身で折りたたまれる。理論的には、非常に多くの異なったやり方で折りたたまれ得るが、実際には、蛋白には1000を少し超えた基本形しか存在しない。したがって、雪の結晶が常に6角形を取るように、「蛋白の中に隠れた形」が存在する。そこからデントンは、蛋白を超えて細胞でも、生物においても同様であると提唱することになる。このような元型となる形の存在は、自然の法則により導かれた進化の理解へとわれわれを導く。

「例えば、紡錘体の構造やラッパムシのような繊毛原生生物の細胞形のような細胞質の形にローバストネスがあることは、おそらくこれらの形もまた物理学の法則で決定される例外的に安定でエネルギー面でも有利な構造であることを示唆している。もし非常に多くのより優れた生物の形態が普通であることが明らかになれば、その意味するところは決定的で、大きな影響力を持つだろう。それは、物理学の法則が生物の形態の進化において、一般に考えられている以上に重要な役割を担っていたことを意味している。そして、それはまたダーウィン主義以前の考え方への回帰を意味することになる。その考え方によると、生物のすべての多様性を土台とした自然な形態の最終的な集合は、炭素を基礎に置く生命のある宇宙の至るところで常に再現される」。考慮すべきは、コンウェイ・モリスもこのような結論を主張していることである。

「ダーウィン主義以前の考え方への回帰」 と言うが、デントンは非ダーウィン主義については語りたがらず、エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールのような「合理的形態学者」の考え方のような進化論の概念について語る。それは、生命のすべての多様性の背後には、ある型の統一性を確保する基本的な要素があるとするものである(例えば、違いがあるにもかかわらず、地上の脊椎動物の足はひとつの共通の原則に従っている。この派の科学者は、脊椎動物が共通祖先に由来するという事実だけでこの統一性は説明できないと考える。臓器の形は合理的な基準に従うのであり、遺伝の法則だけに従うものではない)。

デントンの主著「進化に意味はあるか?」は、ブリッジウォーターの論文(当時の最も卓越した人により1830年に編纂された8つの著作)、生命と環境の完全な適合を書いたローレンス・ヘンダーソンの論文、あるいはもし時計に出会ったならば、そこに時計職人の存在を認めないわけにはいかないとするウィリアム・ぺイリーの有名な論文などのイギリスの「自然神学」の優れた伝統に属する。フランスでは「自然神学」は害を被っている。それは、「自然神学」があくまでも最後に神学的な結論を引き出すために現実の観察から出発することを知らない人たちが、「自然神学」は科学ではなく神学の本であるので読むに値しないと考えたためである。

その解釈は全く不正確である。この本に見られる神学的ないくつかの結論を除くと、純粋に科学的な500ページの中に次のことが示されている。

― 炭素は複雑系を仕上げるための考えられる最良の原子である。
― 水は炭素に基づく生命に考えられる最良の適応をした液体である。
― 重炭酸塩は炭素に基づく生命の考えられる最良の緩衝である。
― 大気のみならず水を通過できる太陽光スペクトルの領域だけは生命にとって最も有用である。など。

「目的論の命題の力の源泉は、自らに都合のよい議論を集めることである。その命題はひとつの証拠に基づくのではない。これらすべての証拠の追加、生命の非常に特殊な目的に向けて説得力をもって導く偶然の長い繋がり、そして独立したこれらすべての証拠が目的論の素晴らしい全体性を示すためにお互いに収まりをつけるという事実に基づいている。進化の領域では、命題は証拠の追加の中からも引き出される。一つひとつを取り上げると、これらの証拠はひとつの可能性を示すに過ぎない。しかし、全体として考えると、それが導かれた進化という概念を強く支持する全的なイメージを与えるのだ」

デントンは彼の誹謗者の主張をよく知っている。それは、もし宇宙がわれわれの存在に適応していないとすれば、われわれはここにいないことになるので、宇宙がひとつの計画に従った印象を与える必要があるというものである。しかし、もし自然の目的論的概念を主張することができるのであれば、「それは宇宙がある点において生命に適応するのではなく、最も適した状態で適応することを認めながらになる」。

この導かれた進化の仮説は間違いなく科学的で、全く宗教的、哲学的ではない(デントンに反対する者は一般的にこの点を忘れている)。なぜなら、それはポッパーの反証可能性を持っているからである。この説に反証するためには、「炭素に基づく生命にとって水と同程度に代替できる液体、二重らせんより性能のよい遺伝情報の保存媒体を作る方法、酸化に勝る生化学的過程、そして蛋白質、脂質二重膜、細胞系、重炭酸塩、リン酸塩などよりも性能のよい構造」を見つければよいだけのである。

デントンが理論的な結論を引き出すのはそれらすべての後のことである。「神が人間の形を創ったことを前提とする受肉という教義により、キリスト教ほど宇宙における人間の絶対的中心性や特異性に依存している宗教はない。中世キリスト教の人間中心的な見方は、人間が作り出した最も奇妙な考え方だろう。それは根本的で決定的に思いあがった理論である。厚かましさにおいてこの理論に匹敵するものはない。なぜなら、すべてが人間の存在と関係があるからである。・・・科学革命がアリストテレスを追放し、目的論的思弁を時代遅れのものにし、この考え方を破壊したかに見える4世紀後、絶え間なく続く発見の流れは目的論に見事に回帰した。4世紀の間無神論と強く結びついていたかに見える科学は、2千年紀の終わりについにニュートンや彼の多くの初期の支持者が切に望んでいたもの、すなわち人間中心主義的信仰の擁護者になったのである」

このように「コペルニクスの亡霊」を祓うことができる。人間は地理学的には最早宇宙の中心にはいないが、より微妙なやり方で宇宙の進化の最終点として中心的な位置を取り戻している。これらの文章を読んだ人には驚きに見えるだろうが、デントンはキリスト教信者ではない。彼がしていることは、自然の化学的、生化学的性質の中に見る一連の偶然の一致がキリスト教神学の中心的な論点を支持していることを認めさせるだけなのである。

彼の現在の仕事は、生気論と生物は機械と根本的に異なることの証明を復権することである。

「生物の領域における還元主義の完全な失敗と新しい形を作り出す試みの完全な失敗は、機械の領域と対照的である。飛行機やタイプライターの特徴や全体の動きは、構成要素の完全な分析を「下から」することにより非常に正確に予見できる。それは機械の構成要素が複雑な相互作用やフィードバックを組み込まなかったからである。・・・反対に、有機的なシステムは本質的には全体から部分に向かうトップ・ダウンが実体である。有機的な形態は部分を超えた全体性であり、そのものに特有で、しかも全体の機能においてのみ現れる秩序を持っている。・・・有機的な集合は独立した分子からひとつずつ積み上げて組み立てることはできない。なぜならその部分は全体の中にしか存在しないからである」

考慮すべき興味深い点は、生物は機械と類似すると考えるダーウィン主義やインテリジェント・デザインを彼が同時に反駁していることである。


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