dimanche 8 mars 2009

第IV部 われわれはここに偶然いるのか? 10章 進化論の発展 (3)

強いダーウィン主義者: 選択、そして選択以外はなし


リチャード・ドーキンス
:生物学者、オックスフォード大学教授

彼は疑いもない超ダーウィン主義者の先頭にいる。すべてが遺伝子で決められる漸進主義を情熱を持って力説し擁護する。もっとも有名な彼の著書「盲目の時計職人」の主題は次のようにまとめられるだろう。目のような複雑な臓器や他の生物の驚くべき特徴を見る時、それらを構想した設計者あるいは「偉大な時計職人」がいるはずだという直感を抱く。自然選択の盲目的な過程は何らの意思もなくこれらをやってのけることができるのである。「5%の視力は何もないよりはよい。5%の飛行能力は何もないよりはよい。今あるすべての臓器や器官はそれぞれの中間過程が生存と生殖に貢献するという軌道、可能な動物の形を再編する空間における軌道をスムーズに進んだ結果であることを全面的に納得することができる。実際に生きている動物において、一度にそれができるためにはあまりにも複雑な臓器Xを持つすべての場合、自然選択の説ではXの一部はXが何もないよりはよく、一つのXよりは二つのXがよりよいと考える」

彼は原生動物が光に向かうことを可能にする光感受性を持った一つの細胞からいくつかの光感受性細胞が再編され、われわれの目に近いが水晶体のない構造を持つオウムガイを経てわれわれのような目に至る進化の過程を注意深く解説する。理論面では、彼は最終的に変異と選択の威力を示すようになっているプログラムを展開する。単純なYから始まり、このプログラムは異なる方向にある異なる特徴を決めている遺伝子に突然起こる変異によって新たな特徴を加えていくのである。選択は自然ではない。それぞれの世代で異なる変異の中から、ドーキンスが最も将来性があると考えるイメージを選択するのである。何百世代のうちに、彼は昆虫、蛙、サソリなどに似た形を得ることになる。

彼が過激主義者であり自然が生物に及ぼす制約を無視していることをいかに否定しようとも、ドーキンスが自然選択には生物を最適化する力があると考えていることは明らかである。彼は更にヘンリー・フォードが自動車のスクラップにあったT型フォードの残骸を調査させ、一つの部品だけでは決して壊れないと結論したことを語っている。その結果、フォードはその部品がほかの部品と同じように壊れるようにその質を低下させたのだ。なぜならその費用はT型フォードにとって無用になるからである。

ドーキンスは自然選択にはこのように生物を最適化する力があると、次のようにはっきりと言う。「サルの骨ごとに見られる骨折の頻度を調べるために、その死骸の調査を命じたとしよう。そして、一つの例外、腓骨を除いてすべての骨はいつかは折れることがわかるとしよう。・・・フォードはその腓骨をより低い基準に作り替えるように命じるだろう。それこそが自然選択がしていることになる。折れやすい腓骨を持つ個体は、成長期にカルシウムを少なく消費するために他の骨の成長や子供のための乳汁産生にカルシウムを使うことができるのである」

ドーキンスは跳躍進化説を批判している。それはすべての変異は偶然で起こるので、可能な動物の形態の中での大きな跳躍は、あり得ない例外を除いて死ということにしかならない。これをもとに、彼はスティーヴン・ジェイ・グールドを真っ向から攻撃している。

彼はダーウィン主義における信念を次のように語っている。「自然選択が蓄積することによる進化論は、複雑な有機体の存在を説明できるわれわれが知る唯一の説である。この説が事実と矛盾することがあったとしても、他にはこれより有効なものはないであろう」。このような信奉の理由として、彼は「競争相手になる説の貧困」を上げている。

しかし、ドーキンスは生物学的還元主義や「ヒトは遺伝子を再生産するための手段である」とする有名な「利己的遺伝子」でも知られている。「遺伝子はあなたや私の中にある。それが体や精神を作り、それを保存することこそ我々が存在する唯一の理由である」。彼によれば、自然選択で選択されるのは有機体ではなく遺伝子になる。ここで社会生物学の領域に入る。こどもを育てているヤマウズラのメスは外敵が巣に向かって来た時に注意を逸らすために自らが犠牲になる。社会生物学ではこの愛他的行為は遺伝子に指示されていると次のように考える。この遺伝子を持っているヤマウズラは持っていないものよりこどもを救う可能性が高く、この遺伝子が集団で優位になる。ヤマウズラはそれを知らずに、こどものためではなく遺伝子のために自らを犠牲にする。これこそが利己的遺伝子説の本質である。われわれのためではなく遺伝子の生存のためにほぼ最適な行動を取るように遺伝子により決定されているのだ。

生物学者のジョン・B.S.・ホールデンは「3人の兄弟、あるいは8人の従兄を救うためならば躊躇なく自らが犠牲になるだろう」と言った。なぜなら2人の兄弟は半分の遺伝子を共有しているので、3人の兄弟を救うと150%の遺伝子を取り戻すことができるからである。ドーキンス自身が「溺れかかった人を助けなければならない2度の機会にこのような計算(溺れている人に自分の遺伝子が何パーセントあるのか)をする時間がなかった」というホールデンの手紙を引用しているのは興味深い。彼に救われたものは幸いである。

ドーキンスは過激な無神論者としても有名である。彼は言う。「われわれが見ている宇宙は、初めに計画も合目的性も善悪もなく、慈悲もない盲目の無関心だけがある時に予期される特徴を持っている」。

彼は「神の有用性の機能」を解析する。「最大化を目指すところのものを有用性の機能と呼ぶ。例えば、ある政府の政策の解析により、有用性の機能は短期ではなく長期的に集団の収入、あるいは負債の減少、さらには教育の質を最大にすることと結論できる。もし神が存在するとして、神が何をすると言うのだろうか。チータの解析から、それはレイヨウの最大数を殺すことであることが明らかになる。レイヨウの解析からはチータから逃れることと考えられる。それでは神は一体どのような邪悪な働きを担っているのだろうか」。もちろん、ダーウィン以前には偉大な時計職人なしにどのようにして生物の途方もない複雑性が現れることになったのかを説明できなかった。無神論が知性にとって十分に満足すべき解決策であり得たのはダーウィンのおかげである。

ドーキンスは、神は重要な問題でないとしたり、この問題に触れないことで満足する無神論者ではない。彼は講演の中で神の存在と戦うために神をよく持ち出している。

ドーキンスとブライアン・グッドウィンとの討論の終りに、私は彼の妻にこう言った。
 「あなたの夫は神についてよく語るが、神に恐れを抱いていて悪魔祓いをしたいと思っていると言えるだろう」
彼女は私にこのような忘れがたい返答をした。
 「私の夫は神を恐れてはいませんが、神がわたしの夫を恐れているはずです!」